01-00412 沅南江

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

げん南江なんこう

いみな宗沅そうげんあざな南江なんこう
濃州じやうしうの人也
洛陽相國寺しやうこくじ雲溪うんけい和尚の上そくにして
永享ゑいかう四年堺南葦原あしはら海濱かいひん草庵さうあんむす
みづから無菴むあんと號す
ある時一休和尚にえつして
狗子ぐし無佛性むぶつしやうによつて投機とうきしやうさく
  妾是多情郎薄情  長門春雨釀愁成
  銀屏宛轉還飛散  乍有作無啼鳥聲
  [※管理人注記:返り点等の表示が上手くできませんので省かせていただきました]
一休和尚これを聞て嘆美しやうび
寛正四年なつじやくす年七十七

今に見る沅南江

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第三編 名蹟誌
第三章 史蹟名勝
第四節 名所

(一)芦原濱
 【所在】堺の沿岸で眺望に富んだ芦原濱は南旅籠町及び南半町の西四丁、同五丁に當る附近であつた。【沅南江隱棲舊址】永享の頃沅南江此地に菴を結んで悠々隱者生活をしたと傳へられてゐるが(堺鑑)其舊址は明かでない。然し、南江の號鷗巢は當時此附近に遊鷗の多かつた事から思ひ付かれたものであらう。其後海岸の埋沒と共に芦原の區域は擴がり、風景愈々蕭條を加へ、德川時代の期にも猶ほ風光絶佳の地として喧傳せられた。【秀忠、家光駕を抂ぐ】元和年間、將軍秀忠、家光相次いで堺に來つた際にも此濱に駕を抂げてゐる。(兩上樣堺御役所御成覺書)此後一部分は開墾せられて町家となり、【元祿二年の狀態】元祿二年の堺大繪圖には芦原町、芦原小路筋、芦原中筋、芦原大濱筋の名を記してゐる。【大和川附替後の變遷】大和川附替後流出土砂の爲めに次第に遠淺となり、内川の開鑿後更らに急變し、遂に全く昔日の風景を失ふに至つた。【現狀】斯くして今は唯南旅籠町及び南半町の西四丁、同五丁に芦原の俗稱を存し、漁業者の住居地となり、内川に近く開口神社の御旅所が設けられてゐる。

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史