堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
岐翁
岐翁は一休和尚の弟子也
ある時師名に背き擯出せられ當津の市ノ町六間筋に住で集雲庵と号す
其後一路居士と宗祇法師とを慿で師の勘氣を免されける
一休しからば我太刀持にすべしと也
今に一休の肖像の傍の太刀持は此岐翁也
㝡波瀾を動さず禅心鉃石の名僧也
其後南宗寺へ居を徙し今に集雲庵開基とする也
ある時師名に背き擯出せられ當津の市ノ町六間筋に住で集雲庵と号す
其後一路居士と宗祇法師とを慿で師の勘氣を免されける
一休しからば我太刀持にすべしと也
今に一休の肖像の傍の太刀持は此岐翁也
㝡波瀾を動さず禅心鉃石の名僧也
其後南宗寺へ居を徙し今に集雲庵開基とする也
今に見る岐翁
堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
(六四)岐翁紹禎
岐翁紹禎は集雲庵の開基である。【一休の門弟】一休宗純に參禪したが、(野史には一休の子、名は紹禎といひ、七十二歳で歿したとある)一休に背いて擯出せられ、堺市之町六間筋に庵地を求め、集雲菴と稱したが、一路居士と宗祇との周旋で歸門を免され、【南坊】師命によつて庵名を南坊と改めた。以後集雲菴とも南坊とも稱へることゝなつた。(堺鑑下、類聚名物考卷五十一)明應七年、【公卿の參禪】烏丸光康は少納言菅原利長と共に堺に來つて岐翁に參禪した。岐翁は亦紹鷗と親交があり、茶話を樂んで居た。(南坊錄一)或はいふ一休岐翁を免したとき、然らば吾太刀を持つべしと云はれ、一休肖像の傍に太刀を持つて居る圖のあるは此岐翁であると云はれ、亦其資性濶達力量があつたと逸聞せられてゐる。(堺鑑下、類聚名物考卷五十一)