堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
道陳
道陳は當津舳松町北向といふ所の産也
数奇の道を執心せられし初は洛陽東山銀閣寺に慈照院義政公まします時其茶道に能阿弥相阿弥とて二人あり
能阿弥老後當津に赴き空海と名を改ける
世人これを聞て弘法大師と同名と難ぜしかば空海答て世には釋迦院阿弥陀寺とさへ付るに弘法の名何かくるしからんといへり
道陳此老人と常に寢食を同じうし唇歯の交をなしけり
其上大林和尚の徒弟となる
道陳が家は元來冨有にして財寳珎噐田畠まであまた持けり
紹鷗と心を合せ南宗寺を再興せり
数奇の道を執心せられし初は洛陽東山銀閣寺に慈照院義政公まします時其茶道に能阿弥相阿弥とて二人あり
能阿弥老後當津に赴き空海と名を改ける
世人これを聞て弘法大師と同名と難ぜしかば空海答て世には釋迦院阿弥陀寺とさへ付るに弘法の名何かくるしからんといへり
道陳此老人と常に寢食を同じうし唇歯の交をなしけり
其上大林和尚の徒弟となる
道陳が家は元來冨有にして財寳珎噐田畠まであまた持けり
紹鷗と心を合せ南宗寺を再興せり
今に見る道陳
北向道陳
北向 道陳(きたむき どうちん、永正元年(1504年) – 永禄5年1月18日(1562年2月21日))は、室町時代の茶匠。堺の舳松町(へのまつちょう)に住む。千利休の最初の師。
略歴
本姓は荒木。家が北向きであったため「北向」と名乗った(堺、北向町に住んでいたからとも)。豪商、思想家ともいわれるが、本職は医師であったとの説が有力。隠者となって、能阿弥の弟子・島右京(空海)より東山流の茶法を受け、近所に住む武野紹鴎と交わりが深く、門弟の千宗易(後の利休)を紹鴎に推薦してその弟子とさせた話は有名。唐物目利として知られ(道陳好み)、虚堂の墨蹟、甲肩衝、善好茶碗、後に信長に献じられた松花の茶壷などの名物道具を多数所持していた。紹鴎の「わび茶」「草庵の茶」に対し、「台子の茶」「書院の茶」を伝えていたとされるが、利休の「わび茶」にも少なからぬ影響を与えている。墓は菩提寺であった堺の妙法寺(日蓮宗)にある。
逸話
茶室は西向きに構えていたが、ある人が「西向きだと光線が不安定でよくない」と言ったところ、「茶会は朝にしか開かない」と答えたという。
【出典:Wikipedia 北向道陳】
北向道陳の菩提寺 妙法寺の墓所
大阪府堺市堺区1 中ノ町東4-1-3
道陳の墓標の隣に曽呂利新左衛門の墓標が建てられています