01-00424 道陳

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

道陳だうちん

道陳だうちんは當津舳松町へのまつちやう北向きたむきといふ所のさん
数奇すきみち執心しうしんせられしはじめ洛陽らくやう東山ひがしやま銀閣寺ぎんかくじ慈照院じせうゐん義政よしまさこうまします時その茶道さだう能阿弥のうあみ相阿弥さうあみとて二人あり
能阿弥のうあみ老後らうご當津におもむ空海くうかいあらためける
世人よのひとこれを聞て弘法こうばう大師だいし同名どうめうなんぜしかば空海くうかいこたへには釋迦院しやかゐん阿弥陀寺あみだじとさへつくるに弘法こうばう何かくるしからんといへり
道陳だうちん老人らうじんつね寢食しんしよくをなじうし唇歯しんしまじはりをなしけり
其上そのうへ大林たいりん和尚の徒弟とていとなる
道陳だうちんいゑ元來もとより冨有ふゆうにして財寳ざいほう珎噐ちんき田畠でんばたまであまたもちけり
紹鷗ぜうおうこゝろあは南宗寺なんしうじ再興さいこうせり

 

今に見る道陳

北向道陳

北向 道陳(きたむき どうちん、永正元年(1504年) – 永禄5年1月18日(1562年2月21日))は、室町時代の茶匠。堺の舳松町(へのまつちょう)に住む。千利休の最初の師。

略歴

本姓は荒木。家が北向きであったため「北向」と名乗った(堺、北向町に住んでいたからとも)。豪商、思想家ともいわれるが、本職は医師であったとの説が有力。隠者となって、能阿弥の弟子・島右京(空海)より東山流の茶法を受け、近所に住む武野紹鴎と交わりが深く、門弟の千宗易(後の利休)を紹鴎に推薦してその弟子とさせた話は有名。唐物目利として知られ(道陳好み)、虚堂の墨蹟、甲肩衝、善好茶碗、後に信長に献じられた松花の茶壷などの名物道具を多数所持していた。紹鴎の「わび茶」「草庵の茶」に対し、「台子の茶」「書院の茶」を伝えていたとされるが、利休の「わび茶」にも少なからぬ影響を与えている。墓は菩提寺であった堺の妙法寺(日蓮宗)にある。

逸話

茶室は西向きに構えていたが、ある人が「西向きだと光線が不安定でよくない」と言ったところ、「茶会は朝にしか開かない」と答えたという。

【出典:Wikipedia 北向道陳

 


北向道陳の菩提寺 妙法寺の墓所
大阪府堺市堺区1 中ノ町東4-1-3

道陳の墓標の隣に曽呂利新左衛門の墓標が建てられています

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史