堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
惠藤源左衞門
惠藤源左衞門は横笛の上手にて北莊矢藏下町に住す
其頃常樂寺の成就坊が什寳に名笛のありしを所望し我師匠の中村備中入道一噌といふ者の教をうけ京指田に直させて常樂寺にて能ありし時此笛を籟ければ金堂に響て軒の瓦落けるゆへ名人の譽世に聞へければ近衛殿より笛の記を書せられ銘を瓦落と号給ふ也
此名笛惠藤が弟子藤田清兵衞讓を受尾張大納言義直卿の御扶持人となりけるよし聞へし
其頃常樂寺の成就坊が什寳に名笛のありしを所望し我師匠の中村備中入道一噌といふ者の教をうけ京指田に直させて常樂寺にて能ありし時此笛を籟ければ金堂に響て軒の瓦落けるゆへ名人の譽世に聞へければ近衛殿より笛の記を書せられ銘を瓦落と号給ふ也
此名笛惠藤が弟子藤田清兵衞讓を受尾張大納言義直卿の御扶持人となりけるよし聞へし
今に見る惠藤源左衞門
堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)
(二九七)惠藤源左衞門
【横笛の名手】惠藤源左衞門は橫笛の名手で、【矢藏下町に住す】堺北莊矢藏下町(熊野町東二丁と同三丁との境)に住み、【中村一噌の門人】中村備中入道一噌の笛の弟子であつた。其頃天神常樂寺の塔頭成就坊の什寶を請受け、一噌の教を受け、之を京都の指由に直させて、亂舞の笛に用ひた。後常樂寺の能會に際し此笛を吹奏したが、【名笛瓦落の來由】妙音金堂に響いて、軒の瓦が落ち近衞公は爲めに笛の記を作つて、銘を瓦落と號づけられたと傳へてゐる。【門弟藤田清兵衞】此名管後弟子藤田清兵衞の手に移り、清兵衞其技を以て尾張侯義直に仕へた。(堺鑑下、攝群陽談卷第十、全堺詳志卷之下)