開口大明神社
三村社
俗ニ大寺とも云
南莊甲斐町の東にあり
又三村明神とも号す
御鎭座を密乘山念佛寺といふ
真言の霊場なり又大寺ともいふ
祭神事勝食勝國長狹命延喜式神名帳に載す これを式内と云
住𠮷旧記云開口明神は伊弉諾尊の御子事勝食勝國長狹なり
後に生玉神牛頭天王を併て住𠮷外宮と穪す
故に朝廷より廿年に一般住𠮷の御社造替毎に當社も造改ある
當境舊は鹽穴の郷内開口村木戸村原村の間也
故に三村明神と号す開口は此地の旧名也 木戸。原。は今大小路の西南にして田畑となる
神㓛皇后韓國を征し給ひ御凱陣の時軍舩九艘此浦に着たる所を後世九艘小路といひ御舩の舳先を松に繋しにより舳松といふ
明神皇后と共にこゝに於て御食を進め給ふ時口を開きましますにより開口の名あり
禊の團子を開口粉團といふは此縁也
两部光を和らげ利益の塵を同うし給ひこゝを念佛寺と号するは聖武帝の御願にして行基僧正開基し給ふ
爾來代々の勅願所として綸旨院宣將軍家の文書數々あり
末社
弁天社 天滿宮 金毘羅 舩玉社 外宮太神宮 内宮太神宮
蛭子社 大黒天 稲荷社 荒神社 秋葉権現
金堂
中央藥師如來 左釋迦 右弥陀 日光 月光 十二神將を安す
明暦元年の建立也
三層塔
大日如來 聖德太子 四天王を安す
寛文三年の建立也
鐘樓
鐘は當所の刺史長谷川佐兵衞尉守尚の再営也
食堂
行基 弘法 役行者を安置す
鳥居
石柱三村大明神の額は竹内良尚法親王の御筆
西門額
密乘山と書す
上ト御同筆
瑞森
當境艮の方にあり
瑞森大明神は素盞烏尊也
今此地に堂を建て藥師如來を安す
長壱尺弐寸
相傳フ此所に井ありていにしへより結界の地大寺の秘所也
諺云堺浦の三浦坊といふ天狗こゝにすみしと也
源平盛襄記曰柿本の紀僧正高雄の峯に入ツて大幔心を起し太郎坊となる
又和泉國堺浦に紀僧正と名を同じうするものあり
大幔心を起し魅となる云云
當寺の封境方壱町許にして衆徒六坊西座二坊あり
常に詣人間断なく神の御前賑しく賈人の小店檐をならべ軍書噺の口拍子操芝居哥舞妓狂言の三弦太皷の音ゆゝしく當津に於て繁花の㝡一也
世俗こゝを住𠮷の奥院と穪するは謬ならん
今に見る開口大明神社
開口神社 拝殿・本殿全景
山之口商店街から入る西の鳥居
市道錦南宗寺線から入る東の鳥居
西の鳥居前に据えられた常夜燈
三村大神宮、住吉奥院と刻まれています
ご祭神 ●塩土老翁神(元開口村の神)
航海の神、塩を司る神であり、物知りの神としても知られています。
又、命の根源を護る神とも言われ、安産の神としても崇められています。
●素盞嗚神(元木戸村の神)
牛頭天王とも蘇民将来とも言われ疫病除災の神として崇められています。
古来より厄除け、開運の神としても篤く信仰されています。
●生国魂神(元原村の神)
国土開発、発展の基となる神として崇められています。
ご由緒
神功皇后が三韓(朝鮮半島)より石津浜に上陸され、塩穴松原にて忍熊王の反乱を平定すべく戦勝祈願の祈祷をした折、老漁師が赤目魚(鯛)を献上したことを吉祥の証と喜ばれ、八重潮路に向かう地に塩土老翁の御魂をお祀りせよとの詔により開口神社が創建されました。
その後、天永4年(1113年)開口村、木戸村、原村の三村の神社併合により三村宮、または三村明神とも称されるようになります。
ご神紋
三ツ茄子
当神社の社紋は三つ茄で珍しいものです。
もとはご祭神に関係の有る巴でしたが、白鳳年間の氏子の中よりひとつのガクに茄子が三つ出来た、これはおめでたい事だと奉納され、それより巴が茄子に変わったと伝えられています。
また、江戸時代の公家である正親町公通が、三ツ茄子の絵に和歌を副えて当神社へ奉納しております。
三ツ茄子が描かれた和歌
明神は墨の江ながら御紋こそ 三つむらさきの茄なりけれ
境内社
竈神社(堺の荒神さん)
豊竹稲荷神社
薬師社
白髭神社 松風神社 塞神社(庚申さん) 厳島神社(弁天さん) 舳松神社 北辰神社 楠本神社
三宅八幡神社 少彦名神社 恵比須神社(戎さん) 大国魂神社(大黒さん) 神明神社 豊受神社
熊野神社 舟玉神社 菅原神社 産霊神社 兜神社 琴平神社 岩室神社
宝物
開口神社は勅願所であったため、公武の崇信篤く、寄進された宝物が数多く存在します。
大寺縁起(紙本著色大寺縁起 絵光起筆)
伏見天皇宸翰御歌集 冬百首
短刀 銘吉光
開口神社文書(念仏差帳日記等)
木造 薬師如来坐像
【出典:開口神社ホームページ】
開口神社ご由緒
祭神は、塩土老翁を主神とし、素盞鳴尊・生国魂命を配祀している。延喜式による式内社。
当社の祭神考によると、神功皇后摂政2年石津北原で 天神地祗を祭った際、老漁夫が赤目の魚を献じた。神功皇后は、これを瑞兆として、その地に塩土老翁を祭らせたのが、当社のおこりとされており、住吉神社の別宮、或は奥院と考えられていた。
天永4年(1113)原村鎮座の素盞鳴尊、木戸村鎮座の生国魂命を開口神社に合祀して、開口・原・木戸の三村の産土神とし、開口三村大明神と称した。
これより先、行基がこの境内に念仏寺を建立し、僧侶が社務をとったので、大寺とも呼ばれた。
「大寺縁起絵巻」「伏見天皇宸翰御歌集」「短刀銘吉光」は、国の重要文化財に指定されている。
また、開口神社文書は史料的に高い価値を占めている。
南荘(大小路以南)の氏神としてのみならず、広く旧市域内タトの人々の信仰を集めている。
西の鳥居前に据えられた常夜燈には三村大神宮、住吉奥院と刻まれています
【出典:堺市設置案内板】
境内社殿
薬師社
薬師社 (内部非公開)
薬師社扁額「瑞森瑠璃殿」
昔境内に大きな楠がありこの樹に三浦坊と云う天狗が常住したとの伝説があってここが聖地であるとして聖武天皇行基に命じて大念仏寺を建てしめ行基の作った薬師如来像を安置したと伝えられています。
この像が大念仏寺(大寺)の本尊ですが明治維新の時、神仏を別け寺を廃寺にすることになり神社のみの神域になりました。
この時薬師像の威徳を讃仰し崇敬する者多くひそかに社内にお祀りしましたが、先般百年振りに社殿を造り薬師社としてお祀りしました。
【出典:開口神社由緒書】
薬師社安置 薬師如来座像
【この画像は、堺文化財特別公開のパンフレットの画像を使用しました。】
木造 薬師如来坐像
【この画像は、堺市ホームページの画像を使用しました。】
一木造であるという構造や、三道から胸にかけての張りのある肉付きは奈良時代末~平安時代の古像を想起させますが、膝前のなだらかな衣文の表現などから、10世紀後半から11世紀初頭にかけての作と考えられます。
堺環濠都市区域では類例の少ない平安時代の仏像彫刻で、開口神社の神宮寺であった念仏寺に関連する像であり、現在も現地に伝えられている点においても貴重です。
境内社 豊受、神明、琴平、三宅八幡、兜、厳島、熊野
境内神社 左より 豊受、神明、琴平、三宅八幡、兜、厳島、熊野
境内社 楠本、舟玉、少彦名、恵美須、大国魂、北辰、産霊
境内神社 左より 楠本、舟玉、少彦名、恵美須、大国魂、北辰、産霊
影向石
影向石
境内神社 兜神社
開口神社境内神社 兜神社
宿院頓宮 兜神社舊蹟碑
【舊蹟碑裏面の碑文】
「兜社 往古 神功皇后自三韓御凱旋之時藏冑祭地也。明治四十一年一月官許遷開口神社域内 昭和拾年七月建之」
この碑文によれば、
この兜神社は、神功皇后三韓征伐御凱旋のおり、此地に甲冑を納め祭った所。明治四十一年(1908)一月、行政(この場合はどこになるのか?)の許可を得て開口神社に遷した。
それを記すため昭和十年七月にこの碑を建てた。
ということで、開口神社の境内神社として今も祭られています。
念佛寺 梵鐘
本願寺鐘樓 (元 念仏寺梵鐘)
現在本願寺堺別院の鐘樓にある梵鐘は、元和3年(1617)の銘をもち、銘文によれば、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼失した念仏寺(開口神社の神宮寺)のために、堺の復興や新しい町割の実施に努めた堺奉行長谷川藤広が再鋳させたものです。その後、明治初期の廃仏毀釈にともない、堺別院に移されたものです。
江戸時代はじめの堺の復興にかかわる歴史的状況を示す記念碑的な資料であるとともに、現在のところ年代の明らかな市内最古の梵鐘としても貴重です。
兵火で焼亡した旧鐘を模したためか、造形的には、中世鐘の形式を色濃く残す点に特徴があります。
旭蓮社 舳松神廟
境内神社 舳松神社は、旭蓮社の鎮守として鎮座していた舳松神廟。
舳松神社の舊址
寺の北門前は謂はゆる九舳小路にして、九本松町或は舳松とも呼び、門内は、村社 舳松神社のありし所なり。社は一に九本松とも呼び、勸請の年月等は詳ならざれども、社名は地名に因みしものなるべし。境内は壹百餘坪を有し七社神社及び、高津神社といへる末社を存し、七社神社はもと寺の鎮守にして、高津神社は傳へて大仙陵の遥拝殿といひしが、社は明治四十年五月二十一日開口神社境内末社に合祀さられて今はなし。
【管理人注釈】文頭の「寺」は、旭蓮社のことです。
【出典:大阪府全志】
開口神社 秋季例大祭 「八朔祭」
開口神社は神功皇后が三韓より帰還された際に創建され天平18年(746)に行基が念仏寺を建立し神仏習合が始まり現在でも「大寺さん」という別称で親しまれています。
天永4年(1113)に開口村、木戸村、原村の三社併合により三村宮または三村明神と号されました。
この開口神社における最大の年中行事は泉州最初の秋祭りとなっている開口神社八朔祭であり4台の「ふとん太鼓」が各地区から宵宮と本宮に神社へと宮入し大変な賑わいを見せています。
古来から大祭を8月朔日としていましたが明治17年(1884)から9月12日と改められ神興の渡御が執行されています。
「ふとん太鼓」は西日本各地に存在する太鼓台といわれるもので地域によって形状の変化が千差万別であり堺市内においては5枚の蒲団と大きな4つの大房を付け、一度に約60人の担ぎ手が肩を入れて担ぎ上げ、乗り子が叩く太鼓の音に合わせて足を運び大きな房を振らせる事が最大の特徴です。
また堺型といわれる堺の宮大工が作り出した蒲団を乗せる台の下に小屋根の有る堺独自の形状の「ふとん太鼓」も存在し台数は少数ですが嘗て「建て倒れの堺」と云われた堺の宮大工が残した伝統文化を今に伝えています。
開口神社の「ふとん太鼓」は堺北ノ庄の菅原神社と並び、堺市における「ふとん太鼓」の文化発祥の地域であり堺に残る正確な記録では明治中期以降ですが言い伝えや他府県に売却された「ふとん太鼓」の記録や現存する太鼓台から江戸中後期から存在すると考えられています。
後に明治末年以降、現在の堺市各地に「ふとん太鼓」は伝播されていき「ふとん太鼓」の伝統文化は拡大を続け、現在の堺市全体の台数は戦前の堺旧市街地の台数(30数基)を超える台数となっています。
【出典:開口神社 八朔祭】
市道錦南宗寺線から入る東の鳥居
開口神社八朔祭に奉納される4台の太鼓台
芦原濱太鼓台(先代 3代目太鼓台)
ふとん締め隠し額 能面師 石倉耕春氏作「鬼面一族」
大甲濱太鼓台
大南戸川(隅田)太鼓台(先代 初代太鼓台)
新在家濱太鼓台(先代 4代目太鼓台)
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