01-00800 海會寺井

海會寺かいゑじの

大寺西門の前にあり
石標せきひやう海會寺かいゑじ金龍井きんりやうせい
相傳むかし龍神りうじん出て乾峯けんほう和尚に曰精舎を建給はゞ初に井を掘給へ
其井の清泉せいせんを志らんとならば試に地上にの羽をしか白露はくろうかまん
其地についいて井を開かば清泉せいせんるへし
和尚其ことばの如くするにはたして名水出す
⻆虎かくこ道人だうにん文集
海會寺之龍井者泉南第一の名泉也
海會寺は今南宗寺の境内にあり

 

今に見る海會寺井


海會寺 金龍井


海會寺金龍井碑

海會寺金龍井碑文

当院宿松山海會禅寺者、勅賜廣智國師乾峯和尚挿草道場也、往昔、封彊廣潤、諸堂完備、為一方甲刹矣、國師道振一世、化被四方、王公帰崇、霊感尤多也、賀茂明神入室受戒、北野天神求書金経、暦應二年四月、金面龍王拜謁、師授以三聚浄戒、龍王曰、何以報慈、師曰此池乏水、致之供衆、則可乎、其夜忽爾穴地、清泉湧出、名曰金龍井、自正慶元年草創、四百二十年、于茲其間因世、故堂宇屢廃、地亦随易焉、今之寺、去井五百歩許在、東南隅、唯有金龍井、提封若干、僅有旧基耳、嗟乎年代深遠、而泉源不涸、直到于今者、國師道所感、而龍王鎮護所致也、清甘香洌、永沃衆渇、誰不景仰哉、因立標樴以示悠久云
宝暦三年年舎癸酉六月  日  海會現住定宗士
認敬誌

【出典:開口神社史料(昭和53年)】

 

案内板

海会寺金龍井

 臨済宗東福寺派海会寺は、元弘2年(1332)洞院とういん公賢きんかた(1291~1360)が草創し、乾峯けんぽう士曇しどん(1285~1361)を招いて開山とした寺院です。
 天正13年(1585)頃までは甲斐町東にあり、その後大町東に移転し、さらに慶長20年(1585)大坂夏の陣の大火以降現在の南旅篭町東に移転しました。
 海会寺金龍井(海会寺井)の名称は、海会寺がこの甲斐町東付近にあった時代に掘られたこと、乾峯士曇が干ばつのときに龍神に祈ったところ、老人に化身した鬼面龍神が現れ井戸を掘る場所をおしえたという由緒があることにちなんでいます。
 室町時代の記録『角虎道人文集かっこどうにんもんじゅう』には、この井戸は、「泉南第一の井戸」であると書かれています。また、江戸時代の記録『全堺詳志』には、「豆腐製造」に、同じく江戸時代の記録『和泉志』には「茶の湯」に適した水を出す井戸であると書かれています。このように古くから名水を産する井戸として広く知られていたことがわかります。

1992年10月       
堺市教育委員会

 

 海会寺が開口神社西門付近にあった1338年、名僧乾峯和尚が徳を慕って教えを乞いに訪れた金面龍王という龍に、ありがたい戒を授けました。龍はお礼に干ばつに困る人々のために、「地面に鵜の羽を敷き白露が浮かぶところに井戸を開けば清水が・・・」と教えました。そこに井戸を掘ると水が湧きだし、枯れることなく泉南第一の名泉と伝えられたそうです。
 海会寺が元和の大火で南宗寺境内に移転後、開口神社の井戸となり西参道入口の大鳥居南側にあります。金龍の名は金面龍に由来、平成16年に大小路界隈『夢』倶楽部により井戸前に館が完成し金龍井が復活しました。

【出典:(公社)堺観光コンベンション協会公式サイト 開口神社】

 

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