如意明神ノ社
市ノ町の東宝巌菴の内にあり
住𠮷旧記曰如意明神は彦炎出見尊を祭る也
海臺に入干滿の宝珠を得給ひてより萬意のごとく行ひ給ふ
於是如意寳珠の義をもつて神号ありけるとかや
世人これを子卯の社ととなへ或は子亥の神とも呼ぶ
此地も初メは住𠮷の領地なり
甘露寺親長卿記云
文明十五年三月廿五日三村ならびに子亥の御前等に参詣す云云
逍遥院記云
廿八日あみた寺へ招請ありしかはまかりむかひて大師の御作の弁財天なとおかみ尊くなん侍る
ちかき寺の風呂に入て夕津けて帰るほどに堺の濵を見めぐりて光明院にかへりし云云
宝巌菴は阿弥陀寺と号す
近き寺の風呂は今の旭蓮社の塩風呂なるべし
光明院共に次下に見へたり
住𠮷旧記曰如意明神は彦炎出見尊を祭る也
海臺に入干滿の宝珠を得給ひてより萬意のごとく行ひ給ふ
於是如意寳珠の義をもつて神号ありけるとかや
世人これを子卯の社ととなへ或は子亥の神とも呼ぶ
此地も初メは住𠮷の領地なり
甘露寺親長卿記云
文明十五年三月廿五日三村ならびに子亥の御前等に参詣す云云
逍遥院記云
廿八日あみた寺へ招請ありしかはまかりむかひて大師の御作の弁財天なとおかみ尊くなん侍る
ちかき寺の風呂に入て夕津けて帰るほどに堺の濵を見めぐりて光明院にかへりし云云
宝巌菴は阿弥陀寺と号す
近き寺の風呂は今の旭蓮社の塩風呂なるべし
光明院共に次下に見へたり
今に見る如意明神ノ社
向泉寺跡碑と並ぶ如意神社跡碑(堺市堺区市之町東4丁)
如意明神ノ社は、浄土宗阿弥陀寺境内に所在し村社に列せられたが、明治二十六年方違神社に合祀された。
【出典:堺市設置如意神社跡碑碑文】
向井神社について堺市史では次のように記されています。
明治二十六年六月市之町東五丁別当阿弥陀寺の奉祀した無格社如意神社及び末社彦天津積神社を合祀した。境域千六百二十一坪、本殿、幣殿、拝殿、神輿庫を具へ、境内に愛宕神社、神明社の外に小祠四社があったが、明治四十年十月方違神社に合祀された。(向井神社調査書)
【出典:堺市史】
ということで、「如意神社跡碑」では、明治二十六年に方違神社に合祀されたと記されていますが、正確には向井神社に合祀され、更に向井神社が明治四十年に方違神社に合祀された、ということになります。
アクセス