三國山向泉寺
宿院
六月晦日
住𠮷御旅所也
【管理人注釈】宿院の挿絵に「向泉寺」が描かれています。
市之町東にあり 真言宗
神㓛皇后三韓征伐の時天神地祇三千七百五十餘座勧請し就中住𠮷の御神を𣁽將としてやす〱と追討し御凱陣に此津の地守の浦に着岸し五月晦日葦の葉に埴をつゝみ方違の袚をなし給ひて後今の住𠮷に鎮座をなさしめける
後世方祟の災を除かん爲に此地に神霊とゝめ方違社と尊奉る
世人家土藏を建る時或は住居を轉ずる時は當寺に來り方違の神符葦の葉の粽を受る事は此社傳に縁なり
厥后天平年中行基僧正三國山の地に精舎をいとなみ鞍作鳥佛師をして千手観音の像を作らしめ安置す
今の本尊是也
其外講堂宝塔鐘樓巍々たりしが永正年中の兵火に罹て灰燼と成
後世再興して寺院及び民家とも今の地に移す故に向井領町と名づく
旧地攝河泉の堺なれば三國山と号し又旧地に名井あり
行基僧正これを掘しめ給ふ故に向井寺ともいふ
此寺攝河に背き泉陽に向ふゆへ向泉寺と穪す
曾て建武元年永福門院命じ給ひて當院向井村に於知行すべしとの令旨あり
旧址に名蹟今尚存せり
今に見る向泉寺
「向泉寺縁起」によりますと、創建の時期は、天平十五年(743)で約千二百五十年前であり、名僧行基が聖武天皇の命を受けて開創した勅願所と伝えられています。
寺は、境内八町四方、南は大仙陵につづき、北は朴津郷(榎津郷とも書く、浅香山から西方海岸に至る地域をさす)に連なっていた。行基は、金堂、講堂、鐘樓、回廊、門などを構営し、金堂には自ら刻んだ千手千眼観世音菩薩(高さ五尺三寸の立像)を、講堂には聖徳太子作橘諸兄の尊信仏薬師如来(高さ三尺の立像)を安置し、修行の学僧が坊を構えてここに住み、その数は数十棟に達する壮観なものでした。
寺の境域が摂津、河内、和泉の三カ国に接するので、山号を「三国山」と称した。堂宇創建の前、行基はまず閼伽井(仏に供える水)を得んとして、一つの井戸を掘り、堂宇がこの泉に向うので「向泉寺」と号し、また「向井寺」とも呼ばれたという。
また、聖武天皇は土師下条の一村を向泉寺の寺領に当てられたと称し、建武元年(1334)永福門院(伏見天皇の中宮)の令旨に、遍照光院(向泉寺)に和泉国土師下条向井村を知行すべきことを記しているので、向井村の区域は早くから向泉寺の領域であった。なお、寺のあったところは、摂河泉三カ国の街路に当るので、行基は伏屋(布施屋)を建てて庶民の休泊に利用させたと伝えられています。後世、和泉名所の一つになった「三国の茶屋」はすなわちその旧跡といわれています。当時は、特定階級の人は別として、庶民は通行の途中、宿泊するところが容易に得られなかった。この伏屋には、今日の旅館などとは違った社会事業施設的な意味があった。
(ただ、「行基年譜」には向泉寺があったとされる地域には、布施屋の存在は記されていません。)
史蹟 三國山遍照光院 向泉寺 閼伽井[全景]
向泉寺 閼伽井
旧向泉寺閼伽井碑
旧向泉寺閼伽井碑文
第四十五代聖武天皇は深く佛教に帰依せられ、高僧行基に命じて天平年中にこの地に勅願寺院を建立された。行基はまず閼伽井を得んとして一泉を掘りこれに向って金堂その他諸堂宇を建て多くの学僧を擁した大寺院であった。
この地は攝津、河内、和泉、三ケ國の界に位置していたので三國山遍照光院と号し、堂宇が泉に向っているところから向泉寺と名づけ、またこの寺が和泉の國に向っていたので、向泉寺と称したともいわれる。
この水は閼伽井の他王子、方違、東原天王の三社の祭祀用水に用い、また諸病に霊験あり、用うればたちまち平癒いわれたが永正年中に寺は兵火にあい市中に移って後は用いる人も次第に少なくなり遂に享保年間に廃寺となった。
寺名の由来ともなったこの井戸は堺市にとって歴史上意義深い史跡である。
昭和四十二年六月十七日
堺市教育委員会
榎土地区画整理組合
如意神社跡碑と並ぶ向泉寺跡碑(堺市堺区市之町東4丁)
碑文
行基の創建で元は榎にあったが、正平年間兵火にかかり後この地に再建された
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