01-01700 龍興山南宗寺

龍興山りうこうさん南宗寺なんしうじ

[南宗寺挿絵 全景]

[南宗寺挿絵 右側]


南宗寺なんしうじ
表門

[南宗寺挿絵 左側]


南宗寺なんしうじ境内けいだい
 牡丹花塔ぼたんくはのとう
 紹鷗塔ぜうをうのとう
 千利休塔せんのりきうのとう

南莊旅籠町の東にあり
禅宗
京師紫野大德寺に属す

開基かいき

正覺普通ふつう國師大林和尚
中興澤菴たくあん和尚

佛殿ぶつでん

額 大雄寳殿たいおほうでん
清巖せいがん和尚筆

本尊

中央釋迦佛しやかぶつ
左 文殊もんじゆ  左𦚰檀 達磨だるま大師
右 普賢ふけん  右𦚰檀 梵天ぼんてん王 毘沙門びしやもん天 摩利支まりし

昭堂せうだう

額 曹溪そうけい
澤菴和尚筆
左檀 将軍家より國初こくしよ御代々神牌しんはいを安す
中央 普通ふつう國師 右檀 澤菴たくあん和尚

鐘樓しゆろう

額 㘴雲𠅘
天室和尚筆

山門さんもん

額 甘露門かんろもん
玉室和尚筆

方丈

唐筆
庭 古田ふるた織部おりべこのみ

浴室よくしつ

額 澤菴和尚筆

客殿きやくでん

額 乍入さにう 澤菴の筆
襖画ふすまのゑ 狩野かの秀信ひでのぶの筆

影堂ゑいどう

花林くはりん居士の石碑せきひあり
銘 澤庵和尚書す
花林居士は堺の先刺史せんしし喜多見きたみ若狭守忠勝たゞかつなり

惣門そうもん

額 竜興山
江雪和尚の筆

牡丹花ぼたんくは肖柏せうはくのたう

當寺にあり

一閑齊いつかんさい紹鷗ぜうおうのたう

當寺にあり
此石塔にみゝあてれば泌音たぎるをと聞ゆる也

せん利休りきう

歴代の仮墓也

小出こいで𠮷英よしふさのゑい

客殿きやくでんにあり
岸和田きしのわだ先城主なり

石河いしかう土佐守とさのかみ

客殿にあり
堺津先刺史せんしし

塔頭たつちう

天慶院 在中庵
四甫庵 長慶寺 
宝光院 集雲庵此庵一休岐翁共に開基し給ふ 移春庵 本源院 
臨江庵 德泉庵此二庵は清巖和尚の開基也  厚德庵 勝善院

鎭守ちんじゆ八幡宮

境内にあり

鏡池かゞのいけ

集雲庵にあり

乳守ちもり明神社

臨江りんこう庵の中にあり
當庵の鎮守なり
俗説曰應神天皇に乳を奉りし神を勧請すとなん
のなきをうれひいのるにすみやか霊驗れいげんありとて諸人群詣ぐんさんする也
一説には道守氏みちもりうぢまつると也
姓氏録云和泉國道守朝臣は八多やた八代やつしろ宿祢すくねのち
日本紀にも見へたり
又一説には此所の地主神をまつりて津守つもり明神といひしを乳守ちもりと聞て乳汁にうしうたるぐはんをかけしに霊驗れいげんあらたにして其奇特きとくありとぞ

そも〱當寺たうじはじ舳松へのまつかたはらにあり
普通ふつう國師こくし大林たいりん和尚をしやうともいほりむすんで屏居へいきよ
三好修理太夫しゆりのだいぶ長慶ちやうけい國師こくしゑつして傾心けいしん敬仰けいかうすなはち弘治こうぢ二年寺地じち宿院すくゐの南にうつ故考こかう三好みよし筑前守ちくぜんのかみ元長もとなが㓛徳塲くとくじやうとしてこゝに建営こんゑい龍興山りようこうさん南宗寺なんしうじがう
元長もとながぞう右大將うだいしやう正二位南宗院殿でんしやう
とき長慶ちやうけい飯森城いゝもりのじやうにあつて弘治二年長慶ちやうけいみづから検校けんげうして當寺に諸材しよざいはこば手斧始てをのはじめをなさしめ同三年五月朔日三万貫まんぐはん領地りやうち寄附きふ
佛殿ぶつでん法堂はつだう禅堂ぜんだう七層塔しちぢうのたう鐘樓しゆろう経藏きやうざう山門さんもん惣門そうもん九十二間の囬廊かいらう百八けん塔頭たつちう衆寮しゆりやう寳藏方丈はうじやう方丈庫裡くり浴室よくしつ大書院おほしよゐん書院對面所たいめんしよ知客寮ちかくれう施薬所せやくしよ渡御門とぎよもん花月𠅘くはげつていとうまで堂々たう〱巍々きゝとして創建さうこんある
同年十一月十五日には南宗寺なんしうじ供養くやうとて導師だうし普通ふつう國師こくし其外諸山しよざん大德だいとく大檀那だいだんな三好みよし長慶ちやうけい御台みだい簾中れんちう花洛くはらくより大臣だいじん公卿くぎやう來輿らいよし給ひて花月殿くはげつでん安居あんきよし給ふ
遠近ゑんきん貴賤きせん竹葦ちくゐの如く群叅ぐんさんして莊巌しやうごん二の霊塲れいじやうとぞ拜しける
べうには祖先そせん三好みよし長輝ながてるれいまつり神像には長輝の甲冑かつちう弓箭きうせんを持たる馬上のざうたけ八寸に黄金わうごんを以てさせ本社に安置す旧地南宗寺の南にあり
其外社頭しやとうに十二けんの寳藏を建て長輝の兵噐ひやうきをさ
社領しやりやうには弐千貫を附與ふよせられ毎歳まいさい五月十二日の例祭いと巌重げんぢうなり巳上三好家旧記大意
厥后そのゝち天正元年當寺禅院ぜんゐんさつじゆんじられける
當津たうつ大廈たいかにして壯麗さうれいたる所桒田さうでん變じて海となるの習ひ同二年松永まつなが久秀ひさひで凶賊けうぞくに乱入し當寺の黄金の像をか子しりけん
これをうばひ取て社頭へ火をかけ逃去にげさりける
此時堂舎たうしや過半くははん囬禄くはいろくわざわいに及ぶ
又元和元年四月廿七日兵燹ひやうせんかゝつ一宇いちうのこらず焼失せうしつ此日開山普通ふつう國師こくし示寂じじやくの日也 人咸ひとみなあやしみけり
厥后そのゝち世上よのなかしづまりて澤庵たくあん和尚再建す
喜多見忠勝たゞかつ堺の吏曹小出こいで𠮷英よしふさ岸和田城主但陰たゐん山名全髙ぜんかう力をあはせ榮繕ゑいぜんたす
故に澤菴たくあんほうじて中祖とす
其時將軍家しやうぐんけよりも税田ぜいでんを賜ふてなが不朽ふきう梵刹ぼんさつとなる
元和九年七月十日台德たいこく相國しやうこく台輿たいよ當山に入御じゆぎよし給ふ
同年八月十八日大ゆう大將軍の台輿當山に入御し給ふ
两將軍當山の㘴雲𠅘ざうんてい渡御とぎよまし〱てとをく西南の海面うみづらつらなるうみ阿波あは淡路あはぢの嶌山北には須磨すま赤石あかし佳景かけい眺望てうばうし給ひて逍遥せうよう時をうつし給ふ
爾來しかつしよりこのかた淨域じやういく光輝くはうきますことむかしにかはらず以上寺記

 

今に見る龍興山南宗寺


間口二間、奥行一間の四足門。
大林和尚「龍興山」の山号額が掲げられていますが、今は見ることができません。


南宗寺案内板

南宗寺

 龍興山南宗寺は弘治3年(1557)三好長慶が父元長の菩提をと弔うために、普通国師ふつうこくし(大林宗套だいりんそうとう)を招いて開山とした臨済宗大徳寺派の寺で、宿院の南方に寺地を構えていた。大坂夏の陣(1615)によって堺市街とともに全焼したが、当時の住職であった沢庵たくあん和尚によって元和3年(1617)に現在地に再建された。承応2年(1653)建立の仏殿・正保4年(1647)建立の山門(甘露門)・江戸時代初期建立の唐門からもんは国の重要文化財に指定されている。仏殿本尊に釈迦牟尼仏、左右に文殊・普賢両菩薩をまつる。
 また、境内には、茶道で大成し名人と呼ばれた武野紹鴎たけのじょうおう千利休せんのりきゅうの供養塔や堺の豪商津田宗達そうたつ宗久そうきゅう父子の墓碑、堺伝授でよく知られている牡丹花ぼたんか肖柏しょうはくの墓碑、さらに国の名勝である江戸時代の枯山水の庭園、第二次世界大戦で焼失したものの昭和35年7月(1960)に再建された利休好みの二畳台目の茶室「実相庵」、利休遺愛の向泉寺伝来袈裟形の手水鉢などがある。

堺市
【出典:南宗寺案内版】


 

山門「甘露門」
国指定重要文化財に指定されています。

甘露門は、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で、禅宗様と和様の折衷様式になっており、棟札により正保四年(1647)の建立であることがわかっています。
清厳宗渭筆「甘露門」の額が掛られています。


仏殿(全景)

仏殿「大雄寶殿」の額が掛けられています。

仏殿天上画「八方睨みの龍」 狩野外記信政筆

 仏殿は大雄寶殿とも言われ、方三間の主室に裳階をまわした方五間本瓦葺の建物で小規模ながら純粋な禅宗様仏殿である。
 中央に釈迦如来、左右に文殊、普賢の両菩薩を安置し、天上には狩野信政筆「八方睨みの龍」が描かれている。
 棟札により承応元年(1652)の建立であることがわかっています。

 

唐門(国指定重要文化財)

唐門(国指定重要文化財) 内側から見た写真

 唐門は細部様式から十七世紀中頃のものと見られます。簡明な構造の向唐門です。木鼻の絵様繰形は、甘露門のものに通ずる共通性が認められます。
 戦災により焼失した東照宮へ通じる唐門です。
 現在は、お茶会の時のみ開門されているようです。

 

坐雲亭

坐雲亭案内板

坐雲亭

 山内最古の建物。下層は茶室。
 元和九年(1623)七月徳川秀忠、同八月家光の両将軍の御成の旨を記した板額がかかっている。
 この両将軍の御成や東照宮が祀られていることなどによって家康が後藤又兵衛の槍に刺され南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残った。墓は今も開山堂下に安置されている。

 

千家一門の供養塔


中央に利休宗易居士の碑
左右に不審庵(表千家)、今日庵(裏千家)、官休庵(武者小路千家)の碑が立っています。
 

武野紹鷗の供養塔
 

牡丹花肖柏の供養塔
 

南宗寺歴代の墓と三好一門の墓
 

伝 徳川家康の墓
 

東照宮跡に祀られている「東照宮 徳川家康墓」
これは昭和42年、水戸徳川家の家老の子孫が寄贈したものだそうです。

東照宮跡 墓碑の下段は、四半敷に石板を敷き詰めてあり
その周りの縁には柱か玉垣を建てた跡の穴が見えます。


東照宮跡を巡る築地塀
徳川家家紋「三つ葉葵」の瓦が置かれた築地塀
 

茶室「実相庵」

 明治九年(1876)に堺博覧会がこの南宗寺で開催され、この時南宗寺の通り向いの鹽穴寺にあった千利休ゆかりの茶室「実相庵」が移築されました。
 昭和二十年(1945)第二次世界大戦の堺空襲で焼失しましたが、昭和三十八年(1963)に再建されました。
 この実相庵は、利休好みの茶室であり、二畳台目、平天井と蒲の落天井の二段構成である。側壁は瓢形に壁を残し、給仕口を開襖とし、にじり口を点前座より開けるといった特色があります。


茶室「実相庵」の前
利休遺愛の「向泉寺伝来の袈裟形手水鉢」
 

茶室「実相庵」の前
\r\n紹鷗遺愛の「六地蔵燈籠」
 

方丈の枯山水庭園[全景]

 方丈前の枯山水庭園は、国指定名勝で仏殿等が建築された江戸時代初期の千利休の弟子・古田織部の作庭と考えられ、前面に広く白砂を敷き小高くなっている地形を利用して枯滝を組み、そこから小石により表現された枯流れを右手の方向に流しています。
 上流部に架けた石橋と枯滝とがよく調和し、中央部にある横石の石組も素晴らしく、平庭枯山水形式の庭と石組造形を組み合わせて構成された美しい庭園です。

 

龍興山南宗寺由緒

 南宗寺は、龍興山と称し臨済宗大徳寺派に属す。
 境内には、総門・仏殿・山門・唐門・鐘樓・弁天堂・方丈・禅堂・坐雲亭の建築物と、塔頭の徳泉庵・本源院・天慶院がある。
 南宗寺は、大永六年(1526)、京都大徳寺の住職古嶽宗亘が堺の一小院を南宗庵と改称したのが始まりと言われる。
 大林宗套は、南宗庵で古嶽に参禅し、その後大徳寺の住職となったが、天文十七年(1548)、師の遺命によって堺に帰り、南宗庵に入った。
 大林和尚に帰依した三好長慶は、父の菩提を発願し、南宗庵を移転して東西八町南北三十町の壮大な寺院を造営し南宗寺とした。
 その後、天正二年(1574)の松永久秀の乱、及び慶長二十年(1615)の大坂夏の陣において南宗寺の堂宇は悉く灰燼に帰した。
 当時の住職、沢庵宗彭と堺奉行喜多見若狭守勝重は、南宗寺の復興に尽力し、元和五年(1619)、現地内に再建した。
 南宗寺第十三世住職清厳宗渭は、正保四年(1647)、山門(甘露門)を造営し、さらに承応元年(1652)には仏殿を建立しており、現在の伽藍は、この頃までに整備されたと考えられる。
 明治三年(1870)に南宗寺住職となった牧宗宗寿は、禅堂及び鐘樓を建立し、我国最初の臨済宗専門道場を開いた。その後、昭和二十年(1945)、太平洋戦争により、開山堂・実相庵・方丈・庫裏を焼失したが、方丈・実相庵は再建され、現在、大阪府下唯一の臨済宗専門道場として多数の道俗に修行の場を提供している。

【出典:南宗寺リーフレット】


浴室
名所図会によれば額「浴室」沢庵和尚の筆と記されています。
 

鐘楼
文政年間、焼失したものを明治初期、牧宗和尚が再建された。
 

弁財天社 
 

南宗寺塔頭 徳泉庵(現寺号:徳泉禅寺)


 

扁額「徳泉庵」(特別公開リーフレットより転写)

 南宗寺の塔頭で臨済宗大徳寺塔頭高桐院に属します。本尊は観世音菩薩像。慶安元年(1648)松江宗安(銭屋の屋号をもつ堺の豪商で長崎より中国人を招いて紗の金襴織りや白粉製造の伝修を得て堺で製造販売を始めた人)が母徳泉追福のために創建、清厳宗渭(のち大徳寺第百十七世、南宗寺第十三世)を請して開祖としました。
 清厳和尚は、千家第三代宗旦の参禅の師。宗旦が清厳和尚を茶席に招いたとき、遅刻した和尚に「明日に来てください」と言い置いたのに対し、和尚は茶席の板張りに「懈怠此丘不期明日(懈怠の此丘明日を期せず)」と書置きました。これは、「遅刻するような怠け者の僧の私は、明日のことはお約束できません。」という意味です。これを見た宗旦は「今日今日といひてその日をくらしゐる あすのいのちは兎にも角にも」、つまり「今日を大切にせずに暮らしていました。明日、命がどうなるのかもわからないのに。」と詠んで詫びたことが、裏千家「今日庵」の名称の由来といいます。
 徳泉庵内の墓地には宗安を始め、父宗訥・母徳泉・徳泉の父誉田屋徳隣及び宗安の子遠貞の墓碑があります。
 本堂内の扁額「徳泉菴」は、清厳和尚の筆蹟です。和尚は、この徳泉庵の他に同じく塔頭臨江庵を開基したほか、南宗寺甘露門や総門を建立しました。

【出典:徳泉庵特別公開時のリーフレット】

 

南宗寺塔頭 臨江庵(現寺号:臨江寺)


臨江寺門
 

臨江寺案内板
 

乳守明神社
 

曾我稲荷社
 

曾我十郎・五郎兄弟供養塔と虎ご石
 

松尾芭蕉句碑
 

句碑(拡大写真)
「口切にさかいの庭のなつかしき」と刻した芭蕉の句碑

 当初臨江庵と称し、承応元年(1652)今井宗久の曾孫今井兼続が開基となり、清厳宗渭禅師が入山して開山となった。臨済宗大徳寺派南宗寺の塔頭の一つで公儀堀に臨んでいたのでこの名がある。
 かつて境内に多くの萩があり、「萩の寺」とも呼ばれた。今井家累代の菩提所で千利休の師である茶聖武野紹鷗の墓碑のほか、堺魚市に重税を課した織田信長に逆らい処罰を受けた十人の町衆の霊を弔らった十王堂趾や、日本三大仇討の一つ曾我十郎・五郎を偲ぶ供養塔と、兄弟を祭った曾我稲荷社、十郎の恋人だった遊女虎御前が石に化したと伝えられる「虎ご石」、昭和二年(1927)に発掘された「口切にさかいの庭のなつかしき」と刻した芭蕉の句碑、また地元乳守遊廓に因んだ霊験あらたかな乳の守り神様「乳女郎ちじょろうさん」や、乳守之旧蹟の碑の裏面にある上賀茂神社神官加茂かもの季鷹すけたかの歌碑などは中世の堺を知る上で興味深い。

【出典:堺市設置臨江寺案内板】

 

南宗寺


仏殿(重要文化財)

枯山水庭園 (国の名勝)

南宗寺(なんしゅうじ)は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は龍興山。本尊は釈迦如来。三好氏の菩提寺。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。

歴史

大永6年(1526年)8月に古嶽宗亘が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けた。宗亘はこの庵を法嗣の伝庵宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大林宗套が南宗庵3代目となった。

弘治3年(1557年)当時、畿内随一の実力者に上り詰めた河内国飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼し、南宗庵をもとにして南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

南宗寺が落成したのは宗套の死後、笑嶺宗訢が2代目の住持を務めていた時代で、山号の龍興山を名付けたのも宗訢である。さらに、元亀4年(1573年)には足利義昭により十刹とされた。

天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、三好之長を祀っていた三好神廟から8寸の黄金像が略奪されている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、4月28日に豊臣方の大野治房による堺焼き討ちで市街とともに焼失したが、その後、元和5年(1619年)に当時の住職であった沢庵宗彭によって現在の場所に移されて再興された。現存する仏殿、山門などは沢庵の没後、17世紀半ばに整備されたものである。

太平洋戦争中の1945年(昭和20年)7月10日に行われた第6回大阪大空襲(堺大空襲)で開山堂、方丈、庫裏、茶室「実相庵」、東照宮などを失ったが、境内は江戸時代の禅宗寺院の雰囲気を今もとどめている。

大坂夏の陣において、徳川家康が後藤又兵衛に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。

境内には臨済宗東福寺派の寺院である海会寺がある。かつて一時期だけ当寺の塔頭であった名残で現在もこの地にある。

伝・徳川家康の墓

当寺には徳川家康の墓とされるものが開山堂の跡地にある。当寺に伝わる『南宗寺史』には、「大坂夏の陣で真田信繁の攻撃を受けて敗れた徳川家康は、駕籠に乗って逃げる途中で後藤又兵衛に見つかり、その槍で突かれて辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を当寺の開山堂の下に隠し、後に改葬した」との話がある。しかし、史実では、大坂夏の陣の前哨戦で堺はすでに大野治房によって焼き払われており、当時の堺には当寺も焼かれてしまってなかったとされる。また、又兵衛は家康にまみえたとされる日の前日に道明寺の戦いで討死している。

墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが新しく作られた現在の徳川家康の墓は水戸徳川家家老の末裔三木啓次郎が1967年(昭和42年)に東照宮本殿の跡に建てたものである。碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とある。

境内

・仏殿(重要文化財) – 承応2年(1653年)再建の禅宗様仏殿。入母屋造、瓦葺き、一重裳階付き(1階建てだが屋根は2層になっている)。内部は石敷きの土間で、中央仏壇上に本尊・釈迦如来像を安置する。天井には狩野信政による「八方睨みの龍」が描かれている。大阪府下では唯一の仏殿建築である。
・禅堂
・客殿 – 2011年(平成23年)再建。
・方丈(本堂) – 1960年(昭和35年)再建。
・庭園(国指定名勝) – 枯山水庭園。方丈南側にある。元和5年(1619年)頃の築造と推定される。寺伝では古田織部の作と伝えられる。
・茶室「実相庵」 – 1960年(昭和35年)再建。千利休好みの様式。
・庭園「曹渓の庭」 – 2007年(平成19年)に原田榮進日本ガルテン協会会長によって作庭。
・庫裏 – 2011年(平成23年)再建。
・徳川家康の墓 – 東照宮本殿の跡地に三木啓次郎によって1967年(昭和42年)に建てられた。
・唐門(重要文化財) – 仏殿の右方にある小規模な門で、仏殿と同時期の建築と思われる。旧東照宮表門。
・夢界堂
・坐雲亭
・椿の井戸 – 千利休屋敷で使われたという井筒。
・鐘楼
・浴室
・弁才天堂
・山門(楼門、重要文化財) – 甘露門ともいう。正保4年(1647年)再建。三間一戸、入母屋造、本瓦葺き。上層軒裏の扇垂木、柱に粽(ちまき)を設ける点などに禅宗様がみられる。
・三好長慶の像
・総門
・徳泉庵 – 塔頭。
・天慶院 – 塔頭。
・本源院 – 塔頭。
・海会寺 – 臨済宗東福寺派の寺院。元は開口神社の南にあった
・千利休の墓
・表千家一門の墓
・裏千家一門の墓
・武者小路千家一門の墓
・武野紹鴎の墓
・三好元長・三好長慶・他の三好一族の墓
・徳川家康のものとされる墓 – 開山堂跡地にある小さな卵形の塔。
・津田宗及一門の墓
・中井芳滝の墓


甘露門(重要文化財)
 

唐門(重要文化財)
 

実相庵茶室

文化財

重要文化財

仏殿 附:棟礼 2枚 – 1993年(平成5年)12月指定。
山門 附:棟礼 1枚 – 1993年(平成5年)12月指定。
唐門 – 1993年(平成5年)12月指定。

国指定名勝

南宗寺庭園 – 1983年(昭和58年)指定。

前後の札所

和泉西国三十三箇所
33 極楽密寺 - 客番 南宗寺 - 客番 慈眼院

交通

阪堺電気軌道阪堺線御陵前停留場下車、徒歩5分
南海バス4・14系等堺市内中回り山之口橋停留所または大仙西町団地前停留所下車

【出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』南宗寺

 

アクセス