旭蓮社
旭蓮社
寺地町東にあり
浄土宗中華廬山派の一本寺鎭西流儀なり
甘露山大阿弥陀經寺と号す
本尊上品阿弥陀佛
開山澄圓上人の作 長丈六
祖師堂
澄圓上人の像を安置す
圓光大師旧蹟廿五ケ所
旧跡をこゝに移しける也
本堂の西にあり
玄恕上人廟
當山十九世の寺職也
祖師堂の北にあり
佛還上人塚
蓮池の傍にあり
昆沙門堂
長八寸
弘法大師の作
古梅
池の傍にあり
玄恕上人の愛樹也
蓮池
本堂の前にあり
此池中に蛙多く棲ども曽て鳴事なし
舳松神廟
當寺の鎭守也
神㓛皇后異國より帰朝の御時軍舩九艘の舳頭向ふ所を九艘小路といひ寺の北門前町をいふ
又九本の松に繋ぎしより九本松町あるひは舳松とも呼ぶ
後世こゝに社を営て九本松明神と崇め奉る也
抑開山澄圓上人は何國の人といふ事を知らず
世人當國家原の文殊菩薩の化現なりと申ける
初メ台宗に入ツて奥㫖を究め
中頃諸宗に亘り益を海藏院虎関に請ふ
竟に花園帝文保元年四月大元國に入ツて六年の間かの國々を巡歴して
後廬山の東林寺に到り優曇禅師に謁して西天佛圖澄三藏の嫡傳惠遠大師念佛三昧の眞訣を面授し佛像経疏等の附託を得給ひ
且は信印の爲とて三藏將來の佛舎利遠公所持の蓮華漏并に衣鉢廬山統継の画史等を賜りぬ
又五臺山に攀登り文殊の記別を蒙り都て二十七州を巡行し叅究の㓛滿て後醍醐帝元享元年に帰朝し渡唐求法の趣を奏達し給へば叡感斜ならず
本邦へ廬山を模すべき事を勅許なし給ひ宸翰の廬山の額を賜り正中元年泉州大鳥郡堺の濵に旭蓮社を草創し侍る本朝蓮社の始祖也
光明帝延元二年に弐千六百貫の租税を賜ふ
康永元年天下大に疫死す
帝人民を愍給ひて澄圓に詔を下し給へば即圓頓菩薩戒を修す
忽疫病止で民間喜悦の眉を開く
其時圓頓大乘戒論師澄圓菩薩と綸㫖を賜ふ
其後南朝後村上帝宮中に澄圓をめして蓮教を講ぜしめ戒師となし圓頓菩薩戒を禀𣴎し叡信なゝめならずして紫衣并に大阿弥陀經寺の宸翰を賜はる
而后崇光帝貞和元年浄土教を以て小乘部と謂なせる編書世に行る
於是松風論十巻を述作して大に浄教頓大の㫖を著す
開山の德輝日々に新なりしかば門末の弘通甍をならべ大伽藍殿堂門蕪三十八宇塔頭僧坊三十餘舎に及べり
竟に鎭西流白旗の正統を法孫に授與し應安五年七月廿七日上人忽焉として見へず門子其行方を知らず
今其日を署して寂日とす
近世玄恕上人寺内に一宇を建て永春院と号し常行念佛怠らず
潮風呂
旭蓮社の領也大町の西にあり
中頃當所八万貫屋妙德といふものこゝを持來りしが昆沙門天を信じ霊夢によつて當寺に寄附す
相傳ふむかし行基菩薩井を鑿て手づから藥師の石像を刻てこゝに安置す
諸人これを浴する時は衆病を除く也
故に貴となく賤となくこの浴室に入る事今に絶ず
潮水井
浴室の前にあり
海辺より六七町隔れども昼夜に滿干あり
攝州有馬の温泉と一雙なりといふ
守覺法親王集云和泉國新家といふ所にてしほゆあみしけるに源中納言雅頼のもとよりかくなん
かきりあれは身こそ數にもいらさらめ心の行をいとはさらなん 雅頼
かへし
ことのはのたよりの風にちる時はかよふ心も色にみへける 守覺法親王
しほゆあみはてゝ都へ帰るとてよめる
日數へしひなのすまひを思ひ出はこひしかへき旅の空かな 仝
むかし此辺は新家村也後世新在家町とす
今四五町南にあり
此塩風呂に就て足利將軍家巳來浴室の條目を賜ツて諸役免除なり
一歳太閤秀吉公こゝに浴し給ひて疾病不日に平愈し給ふ
於是刺史石田隠岐守政成に仰て制状を賜ふ其文に曰
當時境内寄宿并塩風呂諸役之事
令メ二免除一畢ヌ聊カ不可有二違背一者ノ也
文禄二年後九月十七日 秀吉御判
今に見る旭蓮社
旭蓮社南門
旭蓮社山内
本堂
本堂山号額「旭蓮社」
毘沙門堂
宝篋印塔
堺市設置案内板
大阿彌陀経寺(旭蓮社)
甘露山大阿彌陀経寺は、元徳2年(1330)澄円上人の開創で後村上天皇の勅願所であり旭蓮社ともいう。
澄円上人は、後醍醐天皇正中2年(1325)入元中国廬山の東林禅寺に於て、優曇普度禅師について、廬山慧遠大師の白蓮社の念仏の流れを汲み、留学すること5年、元徳元年(1329)帰朝、廬山の白蓮社に模して、堺の浜に精舎を建てこれを旭蓮社と称した。国家安全・宝祚延長を祈らしめ、功を以て菩薩号を賜わり澄円菩薩といった。当寺は慧遠派念仏本山として栄えたが第23世徹誉の時、知恩院の支配に属し、本尊阿弥陀如来像をまつる。明治維新以後当寺は堺県裁判所となったが、のち払い下げを請い堂宇を修繕し旧観に復す。第二次世界大戦の為、毘沙門堂を除き諸堂焼失したが現住これが復興を計り、本堂・山門・庫裡を再建して現在に至る。また第14世燈誉に勅点和歌集があり、第24世成誉蓮阿は「泉州堺旭蓮社縁起」上中下3巻を作った。第37世願誉知海は浄土宗総本山知恩院第80代住職となる。
堺市
【出典:堺市設置大阿彌陀経寺(旭蓮社)案内板】
今の旭蓮社 舳松神廟
開口神社境内神社 舳松神社は、旭蓮社の鎮守として鎮座していた舳松神廟。
舳松神社の舊址
寺の北門前は謂はゆる九舳小路にして、九本松町或は舳松とも呼び、門内は、村社 舳松神社のありし所なり。社は一に九本松とも呼び、勸請の年月等は詳ならざれども、社名は地名に因みしものなるべし。境内は壹百餘坪を有し七社神社及び、高津神社といへる末社を存し、七社神社はもと寺の鎮守にして、高津神社は傳へて大仙陵の遥拝殿といひしが、社は明治四十年五月二十一日開口神社境内末社に合祀さられて今はなし。
【管理人注釈】文頭の「寺」は、大阿彌陀経寺(旭蓮社)のことです。
【出典:大阪府全志 巻之五】
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