02-00400 妙國寺

妙國寺めうこくじ


妙國寺めうこくじ

材木ざいもく町の東にあり
日蓮宗廣普山くはうふさんと号す

開基かいき日珖にちくはう僧正

寺地は三好豊前ぶぜんの之康ゆきやす寄附きふ也これを實休じつきうと号す
諸堂は油屋常言じやうごん建立す
又實休の舎弟安宅木あたき攝津守冬康ふゆやす當寺に於て連哥す前句に
  古沼の淺きかたより野となりて
  すゝきにましる芦の一もと  冬 康
と付られ座を立つひいくさ敗れて討死うちじにせられしとなり

實休塔じつきうのたう

當寺にあり妙國院殿めうこくゐんでん光德實休とせん

蘓鉃そてつ

方丈の庭中にあり
かつ三好みよし實休しつきう當所たうしよ住居すまゐときこゝにはじめうゑおかれし也
竒代きたい大株たいぢうにして一こん地上ちじやうにて十ゆう餘株よぢうとなり
それより四方しはう繁茂はんもし大ゑだ三本小ゑだ七拾八本すぐなるありまがれるあり
惣周そうめぐり弐丈五尺髙弐丈
枝葉しよう六七間のあひだめんはびこ蒼色さうしきにして翠巒すいらんの如し
すべて弐百さい星霜せいさう連綿れんめんとして累年るいねんちやうずる事風土ふうどといひつべし
そうしてさかい津はすみちかうして汐風しほかぜつねたへ
かんふせぐ事まされり
こと地中ちちう鉃氣かなきありて蘓鉃そてついくする事當院たうゐんかぎらず寺社じしやおよ民家みんかにも余國よこくまれなるもの多し
冬日とうじつしもおほひせずして蒼色さうしき四時しいしつねごと
其中そのなかにも當寺たうじ古來こらいよりの名樹めいじゆにし遠近ゑんきん旅客りよかく當津たうつきたればまづこれを一覧いちらんして賞嘆しやうたんせずといふ事なし
霜雪さうせつしの千歳せんざいつねにする君子くんしみさほろんを同じうするの霊樹れいじゆなるべし
  妙國寺の蘓鉃を見て狂哥をよめる
 相撲すもふならせきといふらんこの蘓鉃そてつかたえは京の大佛だいぶつ釋迦しやか

 

今に見る妙國寺


妙國寺山門


本堂


大蘇鉄


蘇鉄の元株


門前の石碑


ちょっと愛らしい顔の龍のオブジェ

妙國寺縁起

妙國寺の創建

 当山は、正親天皇の永禄五年(1562)当時四国の阿波、讃岐より兵を起して、畿内を支配していた三好家四兄弟の一人である三好豊前守之康公が大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を開山となられた日珖上人に寄進し、上人の父で堺の豪商であった油屋常言、兄常祐が協力して此処に堂塔伽藍を建立寄進して、廣普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定められました。

大阪夏の陣

 元和元年大阪落城に際し、豊臣方の将大野道犬は、徳川家康妙國寺に在りと聞き当山に乱入諸堂に火を放ち全山灰燼と化したのであります。

再建及び再々建

 その後寛永五年(1628)本堂再建が実現続いて祖師堂、三重塔、客殿、方丈、勅使門、鐘楼、経蔵、書院、徳正殿、其他支院等旧観を再現し永く開山上人の偉業を受継がれと来たのであります。
 然しながら、第二次世界大戦の末期昭和二十年(1945)七月堺大空襲により再び戦火により殆んど焼失しましたが昭和四十八年(1973)秋三たび現在の姿に面目一新再々建されました。

霊木大蘇鉄

 当山の蘇鉄は樹齢千百年余と称せられ、これにまつわる神秘的な伝統を残し、妙國寺の大蘇鉄として全国に知られています。
 戦国時代天下統一を志した織田信長は、その権力を以て天正七年この蘇鉄を安土城に移植したのですが、毎夜「妙國寺に帰ろう」と云ふ怪しげな声が城中に聞え霊気が城中を悩ますに至りました。激怒した信長は士卒に命じ蘇鉄を切らせたところ、鮮血が切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く見え、さしもの強気の信長も恐れ即座にこの樹を当山へ返し届けたといわれています。
 枯死寸前の蘇鉄を、日珖上人は憐れにおもわれ法華経一千部を誦し、鉄屑を与えられたところ上人の夢枕に、人面蛇身の神が現れ「供養忝なし報恩のため三つの誓いを立てん、女には産みの苦しみを和らげ、苦難にはその災厄を逃れしめ福運の乏しきものには福徳を授く可し」と誓願し、上人はこの所に御堂を建て当山の守護神として、宇賀徳正竜神と申し今日に至っています。

(大正十三年十二月国天然記念物指定)

堺事件

 慶応四年二月十五日、大阪天保山沖に碇泊中のフランス軍艦より水兵百余人がボートに乗り堺浦に上陸物珍しく市内を見物し、神社仏閣に侵入し、驚き怖れる婦女子を追い廻す等、傍若無人の振舞いをしました。時恰も堺警備隊として妙國寺に駐屯していた土佐藩士はこの訴えを聞き直ちに鎮撫のため現場に至り応対したのですが、何分にも言葉が通じないため却って警備隊を翻弄し隊旗を奪われると云う事態に至りました。事こゝに至り隠忍自重の警備隊も遂に発砲を決意し、彼我小銃拳銃応酬の末フランス水兵は十三名の死傷を残し退去しました。此の事件は当然国際問題となり、内には旧幕臣各地に策動し、外にはフランスの圧迫を受け余儀なくフランスの条件を受諾賠償金を支払うと共に警備隊長箕浦猪之吉、西村左平次等二十名に切腹を命じ、二月二十三日妙國寺本堂前に於て日仏立会役人の面前で堂々と割腹自刃しました。その凄絶の様は言語に絶し見るに忍びないものがありました。十一人の切腹を終え十二人目にかゝると日は既に沈み暮色漸く濃く鬼気人に迫るものがありましたので、立会検視のフランス人は俄に退場しましたので残りの九名は切腹を中止し大阪藩邸に移送し朝議の末土佐へ流刑となりました。
 維新草創の際若くして国事に倒れし志士尠なからず、この土佐藩士も潔よく国に殉じた精神はいつまでも語り伝えられることゝ信じます。
 尚当山は勅願寺であった為埋葬を許可されず止むを得ず向いの宝珠院に埋葬されたのであります。

【出典:拝観のしおり「元皇室勅願寺 本山 妙國寺縁起」】

 

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