成就寺
[本願寺御門跡堺御坊、善長寺、成就寺 全景]
成就寺
六條とも云
善長寺
將軍松
宿屋町の東にあり
日蓮宗
開基日験上人
應永十四年花洛日傳上人の師命を奉し妙題并に成就寺の号の染墨を受持し
こゝに來ツて宗門を攝泉に弘通す
又天文の頃六條本圀寺の日助上人騒擾を避てこゝに來居する事凡て七ケ年也
故に今六條といふ号あり
今に見る六條成就寺
成就寺
大法山成就寺は、応永13年(1406)10月日蓮宗本圀寺の日伝の命を受けた、法光院日験により創建、摂津・和泉の布教活動の拠点としました。
天文年中(1532~1554)に京都六條本圀寺の化主日助が法乱を避けて本寺に7年も住むことになったので、通称当時を六條と呼ぶようになった。宝永元年(1704)の記録には本地院・玄龍院・要泉坊・安住院・十如院・聖主院・本行院等7坊の名があり、境域は広く中央に方十間の本堂があり、拝所・客室・庫裏・玄関・納屋・土蔵・門番所が並び、外に方七間の祖師堂と番神堂があり障壁を廻らせ、三方に門を設けておりました。
本尊に題目宝塔・釈迦牟尼仏をまつる。
寺宝に日蓮聖人像(応永時代)十六羅漢函四幅対・土佐光起画一幅・嵯峨天宸翰法華経一部八巻等があります。境内には鉄砲伝来時に種子島で鉄砲の製法を習得し、堺に帰りこれを広めたと伝えられる堺の商人橘屋又三郎や三鍛治の一人芝辻長左衛門(邦考)の墓があります。
天文年中(1532~1554)に京都六條本圀寺の化主日助が法乱を避けて本寺に7年も住むことになったので、通称当時を六條と呼ぶようになった。宝永元年(1704)の記録には本地院・玄龍院・要泉坊・安住院・十如院・聖主院・本行院等7坊の名があり、境域は広く中央に方十間の本堂があり、拝所・客室・庫裏・玄関・納屋・土蔵・門番所が並び、外に方七間の祖師堂と番神堂があり障壁を廻らせ、三方に門を設けておりました。
本尊に題目宝塔・釈迦牟尼仏をまつる。
寺宝に日蓮聖人像(応永時代)十六羅漢函四幅対・土佐光起画一幅・嵯峨天宸翰法華経一部八巻等があります。境内には鉄砲伝来時に種子島で鉄砲の製法を習得し、堺に帰りこれを広めたと伝えられる堺の商人橘屋又三郎や三鍛治の一人芝辻長左衛門(邦考)の墓があります。
【出典:堺市設置案内板】
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