七堂濱
北莊の西濵をいふ相傳ふいにしへは髙須寺の七堂伽藍ありし旧蹟といふ
續日本紀曰
光仁帝寳亀四年十一月勅して曰大僧正行基は智德兼備にして先代より推仰する所也
後世耳目を窮する所其修行の院々都て四十餘宇或は先朝の日施入の田あり或は本來田園あつて供養の濟を得たるもあり但此六院はいまだ施例に預ず因茲法藏湮廢して復住持する徒なし精舎荒涼して空しく㘴禅の趾を餘ず
道を弘る人によつて實は弉厲を合て冝大和國菩提 登美 生駒 河内國石凝 和泉國髙須此五院各當郡の田三町を捨す云云
續日本紀曰
光仁帝寳亀四年十一月勅して曰大僧正行基は智德兼備にして先代より推仰する所也
後世耳目を窮する所其修行の院々都て四十餘宇或は先朝の日施入の田あり或は本來田園あつて供養の濟を得たるもあり但此六院はいまだ施例に預ず因茲法藏湮廢して復住持する徒なし精舎荒涼して空しく㘴禅の趾を餘ず
道を弘る人によつて實は弉厲を合て冝大和國菩提 登美 生駒 河内國石凝 和泉國髙須此五院各當郡の田三町を捨す云云
今に見る七堂濱
千日井がある付近の全景
高渚寺の井戸と言われている千日井
千日井
此の井は行基菩薩七堂構榮の地に鑿掘したるところと傳ふ
今や蒲生氏及びその一族の特志により修理の巧を竣へ清泉滾々として盡きす
汲む人其遺澤を憶へ
四天王寺現董
大僧正 大應 撰書
千日井案内板
大阪府堺市堺区七道西町
千日井は、奈良時代の高僧行基(668-749)が開いたとされる、高渚寺の井戸といわれています。堺に上水道が整備されるまでは、付近の人々の飲料水源となっていました。
井戸の横にある縦長の石碑は、かつて土居川に架けられていた「千日橋」のたもとにあったもので、千日橋の建立にかかわった「岩ノ喜兵衛」や水難によって亡くなった人々の供養た文政9年(1826)に神南辺隆光(道心)が発起し、宗見寺の真誉上人が導師、付近の農民たちが世話人となって建立されたものです。
井戸の横にある縦長の石碑は、かつて土居川に架けられていた「千日橋」のたもとにあったもので、千日橋の建立にかかわった「岩ノ喜兵衛」や水難によって亡くなった人々の供養た文政9年(1826)に神南辺隆光(道心)が発起し、宗見寺の真誉上人が導師、付近の農民たちが世話人となって建立されたものです。
堺市教育委員会