02-02100 牛頭天王社

牛頭天王社ごづてんわうのやしろ


さかい 東原とうげん天王

東原とうげん天王は百濟はくさい王仁ほうにんまつる也
べうは河州交野かたの藤坂ふじさか村山中にあり

中筋村にあり
祭神中央ちうわう牛頭ごづ天王 左東原とうげん明神 右向井むかい皇子
ある東原社とうげんのやしろ王仁ほうにんの霊也 向井むかい兎道稚郞子命うちのわかいらつこのみことあはせて三社とす
抑王仁は百濟國はくさいこくの人なり 應神をうしん天皇十六年春二月に來朝し則兎道命うちのみこと王仁わうにんとし給ひもろ〱の典籍てんせきを学び給ふ也とぞ日本紀

 

今に見る牛頭天王社


方違神社境内に建てられた「向井神社」石碑

東原大明神、楯井原社、牛頭天王社等の名を以て呼ばれいた向井神社は、明治四十年方違神社へ合祀されました。


けやき通りに植わっている「くろがねもち」
旧向井神社のご神木と言われています。

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第三編 名蹟誌 第一章 神社及神社址 第二節 神社址

(一五)向井神社址
 東原大明神、楯井原社、牛頭天王社等の名を以て呼ばれ、【所在】德川時代櫻の名所として知られた向井神社は三國丘町にあつたが、明治四十年方違神社へ合祀移轉し、舊址は同社の飛地境内となつた。【舊址】舊址は反正天皇御陵の東方違神社の南にあつて、三千六百六十二坪を有する長方形の境域である。周圍東方は田面に連續し、西方は堤防を以て御陵兆域に近く、南は中央より馬場先址の道路を南へ通じ、道路以西は西側同樣に堤防を存し、北側は一帶の田面で、其西端より北へ道路を通じて方違神社境内東南隅に聯絡してゐる。【黐木と柏樹】境内中央に高さ五丈、周圍目通一丈二尺の黐木があり、其北方南北に並列した柏樹の畔が本社の舊址に當ると云はれてゐる。(神山鈴吉氏談)【反正天皇御陵陪塚】又黐木の西方に兆域二十三間一尺の御陵の陪塚天王があり、舊境内北端に池水を繞した中島がある。【小髭神社】境内の東北隅には小髭神社の小祠があつて、祠前に元祿六年十月建立の石燈龍一基が建つてゐる。
 
 【元祿頃の狀態】元祿頃には境内東西二十八間餘(新間三十間二尺餘)南北五十一間(新間五十五間一尺五寸)を有し、東、南、北の三方に門を附し、南門より南へ幅員五間(新間五間二尺五寸)延長七十六間(新間八十二間二尺)の馬場先があつた。其境内中央には東北二方に鍵形の瑞籬を設け、中に南面の本社が建ち、東南方には池水を湛へ、中島に小祠を設け、殊に馬場先兩側には櫻其他の並樹を植ゑてゐる。(元祿二年堺大繪圖)當時營造物は方一間半の本殿、二間に一間半の幣殿、五間に二間の拜殿を初めとし、神明、八幡、稻荷、愛宕、大黑、辨財天、香椎、荒神の末社があつた。(元祿十四年和泉國大鳥郡堺廻四箇村覺書)【櫻の名所】境内及び馬場先の櫻は明治以後も猶堺大觀に收めた寫眞で見ると、依然として陽春の候には白雲靉靆の狀を示してゐる。【明治以降の變遷】維新後廢佛により向泉寺との關係を斷ち、同六年鄕社となつた。同二十年境内小山にあつた大年神社は同山が御陵の陪塚に指定せられた結果他へ移轉し、同二十六年市之町東五丁阿彌陀寺にあつた無格社如意神社及び同末社彦天津積神社を合祀した。方違神社へ合祀移轉の頃には境内千六百二十一坪を有し、本社、幣殿、拜殿、神輿庫、社務所及び伊邪那岐、伊邪那美、埴山、武内、愛宕、神明の六末社があつた。(社寺明細帳)

【出典元:ADEAC(アデアック)堺市立中央図書館/堺市史 向井神社址