石津郷
堺の南廿町許にあり
上石津下石津といふ
姓氏録云
和泉國神別に石津ノ連は天穂日命十四世の孫野見宿禰の後なり
土佐日記云
いしつといふところの松はらおもしろくてはまへとをし
更級記云
さるへきようありて秋の頃いつみにくたり冬になりてのほるにおほつといふ浦に舟にのりたるに其夜雨風いはもうこくはかりにふりふゝきて神さへなりてとゝろくに波のたちくるをとなひ風のふきまとひたるさまおそろしけなることいのちのかきりつとおもひまとはるをかのうへに舟を引あけて夜をあかす雨はやみたれと風なを吹つゝ舟出さす行ゑもなきをかのうへに五六日をすくすからうして風いさゝかやみたるほと舟のすたれまきあけて見わたせは夕しほたゝみちにみちくるたまとりもあへす入江のたつの聲おしまぬもおかしくみゆ國の人々あつまりきてその夜このうらを出させたまひて石津につかせたまへらましかはやかて此御舟なこりなくなりなましなといふ心ほそうきこゆ
夫木
あるゝ海に風よりさきに舟出していしつの波と消なましかは
更級記は菅原孝標の女の著す文也
即祐子内親王の侍女也
兄定義は和泉守に任じて和泉の国府に居す
京北野本殿七座の内の和泉殿にして從五位下菅原定義也
菅神六世の孫從四位上孝標の子にして紀傳の道を業とす
令聞祖に恥ず
上石津下石津といふ
姓氏録云
和泉國神別に石津ノ連は天穂日命十四世の孫野見宿禰の後なり
土佐日記云
いしつといふところの松はらおもしろくてはまへとをし
更級記云
さるへきようありて秋の頃いつみにくたり冬になりてのほるにおほつといふ浦に舟にのりたるに其夜雨風いはもうこくはかりにふりふゝきて神さへなりてとゝろくに波のたちくるをとなひ風のふきまとひたるさまおそろしけなることいのちのかきりつとおもひまとはるをかのうへに舟を引あけて夜をあかす雨はやみたれと風なを吹つゝ舟出さす行ゑもなきをかのうへに五六日をすくすからうして風いさゝかやみたるほと舟のすたれまきあけて見わたせは夕しほたゝみちにみちくるたまとりもあへす入江のたつの聲おしまぬもおかしくみゆ國の人々あつまりきてその夜このうらを出させたまひて石津につかせたまへらましかはやかて此御舟なこりなくなりなましなといふ心ほそうきこゆ
夫木
あるゝ海に風よりさきに舟出していしつの波と消なましかは
更級記は菅原孝標の女の著す文也
即祐子内親王の侍女也
兄定義は和泉守に任じて和泉の国府に居す
京北野本殿七座の内の和泉殿にして從五位下菅原定義也
菅神六世の孫從四位上孝標の子にして紀傳の道を業とす
令聞祖に恥ず