02-03300 家原城跡

家原城跡ゑばらのしろあと

家原村にあり
中頃寺町左近雀部さゝべ次兵衛城を家原にきづいふる
永禄十二年正月元日三好山城入道笑岩齊せうがんさい精兵を進めて两士を
此ゆへに城を守る事能はず終にこゝにて自害じがい
此時泉州所々の要害ようがい十八所一時に敗走はいそう後太平記

今に見る家原城跡


家原城跡 全景
 

家原城跡碑
 

家原城跡案内板

家原城跡

 16世紀中頃は、三好長慶が「畿内八ケ国」を制圧し和泉国もその支配下にありました。永禄年間(1558~1569)以降三好長慶の家臣松永久秀が力を得て、三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになります。
 家原城は松永方の和泉国の侍たち(和泉衆)がたてこもっていました。永禄9年(1566)2月松永方の寺町左近将監てらまちさこんしょうげん雀部<ささべ/rt>治兵衛らがたてこもる家原城が、三好政康の兵約5000騎に攻められ落城します。家原城から逃れた人々は、踞野つくの、家原に住み着いたといわれています。
 明治時代に描かれたと思われる右の絵図によれば、城域は南北に約175m・東西に約245mで、本丸を中心に南の曲輪くるわ(南北約24m・東西約16m)・西の曲輪(南北約26m・東西約20m)が付属しています。城の周囲は堀(幅約6m)・土塁によって守られています。城の南・東・西部は、石津川など自然地形の防禦のためにたくみに利用していることがわかります。この絵図に描かれた家原城は戦国期の城郭の特徴をを備えており、永禄11年の家原城合戦の時期の形態をうかがうことができます。
 現在は、公団住宅などが建ち並んでいますが、大池に面した部分にかつての家原城の南の曲輪の地形の面影を見いだすことができます。

1994年3月       
堺市教育委員会

【撮影:2008年9月21日】
現在は、城跡も整備されており城門も再建されています。再度訪問したいと思います。
その時に現状の写真を撮影し再度掲載したいと思います。