日部神社
日部神社
行興寺
草部村にあり延喜式内也
日部の祖神を祭る
今牛頭天王として産沙神とす
今に見る日部神社
日部神社参道
日部神社鳥居
日部神社神門
日部神社拝殿
日部神社本殿
境内案内板
日部神社
当社は、この地を原籍とする日下部氏の祖彦坐命を祭神として延喜式神名帳にも記されている古社である。
明治の神社合祀策によって同44年鶴田村字輪之内にあった日部神社・同字寺山の八坂神社・原田の熊野神社・上村の菅原神社が合祀され現在に至っている。
本殿及び神門は、八坂神社のものをそのまま残し、拝殿は旧菅原神社のものを移築し、祭神は、日部神社の彦坐命を祭った。南面する本殿は、切妻造りの外観を示し、向拝がつくため正面の屋根は入母屋造風となっている。ただ、後世の改造が多いため、当初の形は不明である。向拝の組物・蟇股・斗栱・繋虹梁・垂木などの細部に南北朝から室町初期の様式が見られる。
本殿前右側の石灯籠は単弁の反花座上のおく方形の基礎側面の帯郭内に牡丹・獅子が半肉彫され、竿側面の前後にも、龍・雲・宝珠が浮彫りされている。竿の左右二面には「和泉国大鳥郡草部上条牛頭天皇灯壚也」「正平24年巳酉卯月8日」の銘文がある。本殿と石灯籠は国の重要文化財に指定されている。
堺市
本殿前右側 石灯籠(複製品)
日部神社石灯籠案内板
石灯籠収蔵庫前設置の案内板
重要文化財
日部神社 石灯籠
この石灯籠は四角形のすっきりした美しさと、和泉砂岩の細かい石質を生かした装飾性豊かな彫刻に特色がはしあります。
比較的薄作りの笠の上には、近畿地方の石灯籠には珍しく四方に火焔をあらわにした宝珠を乗せ、火袋の大きく面取りした各面には厚肉彫りで四天王立像を刻んでいます。火袋の火口を除いた各面には宝相華唐草文・唐草文・日月輪・雷文を配し、火袋を受ける中台側面は二区に分け唐草文をあしらっています。
方形の竿やそれを受ける基台の意匠もまたすばらしいもので、竿の二面に刻まれた昇り龍と降り龍は頭と尾の先を見せているだけで胸は雲の中に隠れ、基台四面の唐獅子は全の形姿のが異なるなど構図にも工夫がみられます。竿の他の二面には「和泉国大鳥郡草部上条牛頭天皇灯壚也」「正平24年巳酉卯月8日」という銘文が記されており、この石灯籠が南北朝時代・正平24年(1369)に作られたことがわかります。製作年代の判明する工芸的に優れた四角灯籠としては貴重な作品です。
以前は本殿に向かって右側に置かれていましたが、風雨によっての石質の劣化が進行したため保存修理がおこなわれ、修理後、石灯籠は収蔵庫内に移され、もとの場所には複製品が置かれています。
1994年3月 堺市教育委員会
拝殿屋根下の彫り物
懸魚「松に鶴」虹梁「雲」蟇股「龍」
木鼻「獅子・獏」
日部神社
日部神社(くさべじんじゃ)は、大阪府堺市西区草部にある神社。式内社で、旧社格は村社。
祭神
彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。
彦坐命は日下部首氏の祖神である。日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたという。
当社は明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。他に旧八坂神社の素盞嗚尊、旧熊野神社の伊弉冉尊、旧菅原神社の菅原道真を合せ祀る。
歴史
日部神社の創建の由緒は不詳であるが、神武天皇が東征の際に上陸し、長髄彦と最初の戦いをした「日下の蓼津」はこの一帯であると『古事記伝』に記されている。
明治44年に八坂神社・熊野神社・菅原神社が日部神社に合祀され、旧八坂神社の社地に遷座した。
境内
社地および本殿・神門は旧八坂神社のものである。本殿前の石燈籠に製作日の記録として「正平二十四年卯月八日」と彫られていることから本殿は南北朝時代から室町時代にかけての建造とみられ、本殿・石燈籠は大正6年(1917年)、重要文化財に指定された。『和泉名所図会』(寛政8年(1796年))第2巻によれば、これは南北朝時代を代表する名将楠木正儀の寄進によるものと言われる(詳細は楠木正儀#墓所・史跡など)。本殿の蟇股には、さまざまな彫刻が施されてある。拝殿は旧菅原神社のものを移築したものである。
日部神社の旧社地は現在地の南300mの所で、道臣命が埋葬されていると伝えられる御山古墳の側にある。遷座後の旧社地は大正初年に民間に買却され、現在は住宅地となっている。
祭事・年中行事
夏祭(7月13日)
地車(だんじり)祭(10月5日)
文化財
重要文化財
本殿 – 南北朝時代の作。
石燈籠 – 南北朝時代 正平24年(1369年)の作[3]。
堺市指定文化財
神門 – 江戸時代の作。
アクセス