02-05500 陶噐莊

陶噐莊たうきのしやう

昔は大村郷 深坂村 田園村 辻村 大村 北村 府久田ふくた村 髙藏村 岩室村をいふ
むかしは此地にて陶噐すゑものを多くつくり出すゆへ名とす
日本紀崇神すうじん天皇七年の巻に曰
霊夢れいむによつて茅渟縣ちぬのあがた陶邑すゑむらに於て大田々根子をたてまつるあり
又舊事紀大己貴神おほあなむちのかみ天羽車大鷲あまはぐるのおほわしに乘て節渡縣せとのあがた茅渟の事也下行くだりゆき大陶祗女おほすゑすみのむすめ活玉依姫いくたまよりひめとし往耒かよひ給ふと
神代かみよに此所すゑ氏の人ありて則陶邑すゑむらのこりし也
又此さと人民にんみん陶噐たうきを作りてなりはいとす
三代實録曰
貞感元年夏四月廿一日河内和泉两國陶噐すゑもの<をたきゞる山をあらそ
朝使てうし左衛門少尉紀今影きのいまかげかんがへて定て和泉國とす
今は此事絶て農家のうかばかり也折節をりふしには土中どちうより陶噐たうき出る
予も此地におもむきし時髙倉寺たかくらじの住呂に掘出したる陶噐たうきもらかへ
まこと竒雅きがにして古代こだいすがた顕然けんぜんたり世に行基焼ぎやうきやきといふ古代の陶噐すゑものありこれらをいふか
此地は行基時代じだいよりはるか已前いぜん陶噐たうき神代かみよよりともいひつべきもの歟

今に見る陶噐莊


茅渟県陶邑を象徴する登り窯跡(栂第61窯)

 栂地区南部域の丘陵に存在した登窯であり7世紀初頭の須恵器生産に築かれ使用されたものである。発掘調査した多数の窯で、泉北丘陵の窯のうちでも最大規模のものであり、泉北丘陵における窯業生産をうかがう好資料である。保存度がきわめて良いものであったため原寸大で移築されて復原をおこなったものである。手前の床の平な部分で薪を焚き、上部に煙道を設け、斜面に壺や甕などを置いて焼き上げたものである。

【出典:復原登り窯に設置された案内板】