陶噐莊
昔は大村郷 深坂村 田園村 辻ノ村 大村 北村 府久田村 髙藏村 岩室村をいふ
むかしは此地にて陶噐を多く作り出すゆへ名とす
日本紀崇神天皇七年の巻に曰
霊夢によつて茅渟縣陶邑に於て大田々根ノ子を貢るあり
又舊事紀大己貴神天羽車大鷲に乘て節渡縣茅渟の事也に下行て大陶祗女活玉依姫を妻とし往耒給ふと云云
神代に此所陶氏の人ありて則陶邑の号遺りし也
又此郷の人民陶噐を作りて業とす
三代實録曰
貞感元年夏四月廿一日河内和泉两國陶噐<を焼く薪を伐る山を争ふ
朝使左衛門少尉紀今影等考へて定て和泉國とす
今は此事絶て農家ばかり也折節には土中より陶噐出る
予も此地に赴きし時髙倉寺の住呂に掘出したる陶噐一ツ貰ひ帰る
誠に竒雅にして古代の相顕然たり世に行基焼といふ古代の陶噐ありこれらをいふか
此地は行基時代より遙に已前の陶噐也神代よりともいひつべきもの歟
むかしは此地にて陶噐を多く作り出すゆへ名とす
日本紀崇神天皇七年の巻に曰
霊夢によつて茅渟縣陶邑に於て大田々根ノ子を貢るあり
又舊事紀大己貴神天羽車大鷲に乘て節渡縣茅渟の事也に下行て大陶祗女活玉依姫を妻とし往耒給ふと云云
神代に此所陶氏の人ありて則陶邑の号遺りし也
又此郷の人民陶噐を作りて業とす
三代實録曰
貞感元年夏四月廿一日河内和泉两國陶噐<を焼く薪を伐る山を争ふ
朝使左衛門少尉紀今影等考へて定て和泉國とす
今は此事絶て農家ばかり也折節には土中より陶噐出る
予も此地に赴きし時髙倉寺の住呂に掘出したる陶噐一ツ貰ひ帰る
誠に竒雅にして古代の相顕然たり世に行基焼といふ古代の陶噐ありこれらをいふか
此地は行基時代より遙に已前の陶噐也神代よりともいひつべきもの歟
今に見る陶噐莊
茅渟県陶邑を象徴する登り窯跡(栂第61窯)
栂地区南部域の丘陵に存在した登窯であり7世紀初頭の須恵器生産に築かれ使用されたものである。発掘調査した多数の窯で、泉北丘陵の窯のうちでも最大規模のものであり、泉北丘陵における窯業生産をうかがう好資料である。保存度がきわめて良いものであったため原寸大で移築されて復原をおこなったものである。手前の床の平な部分で薪を焚き、上部に煙道を設け、斜面に壺や甕などを置いて焼き上げたものである。
【出典:復原登り窯に設置された案内板】