02-05800 大集會山天王院髙倉寺

大集會山だいしゆゑさん天王院てんわうゐん髙倉寺たかくらじ


陶噐莊たうきのしやう
髙倉寺たかくらじ
此ほとりの土中より今も陶噐すゑものを掘出す事もれにあり

陶噐莊たうぎのしやう髙倉村たかくらむらにあり眞言宗

金堂こんだう

本尊 藥師佛
行基作

祖師堂そしだう

本堂の東にあり 行基菩薩 弘法大師を安す

行者堂ぎやうしやだう

大師堂の南にあり 法起菩薩 役行者を安す

大日堂だいにちだう

本堂の南にあり

鐘樓しゆろう

大日堂の南にあり

鎭守社ちんじゆのやしろ

大師堂の南にあり
熊野 白山 金比羅 梵天を祭る

弁財天べさいてんの

本堂の北にあり
弁天 聖天尊を祭る

當山は文武もんむ天皇御宇慶雲けいうん二年行基菩薩ぎやうぎぼさつ開創かいさうし給ふ
いにしへは伽藍がらん巍々ぎゝとして坊舎ばうしや數多あまたあり
永正十年癸酉十月十こく沙門しやもん眞海しんかいぐはする當寺たうじ伽藍がらん古圖こづに見へたり
上古は此地をんで修惠院しゆゑゐんとも称す
當寺の什具じうぐねうめいに曰久安きうあん五年十月十八日大修惠院だいしゆゑゐんせん
水天尊すいてんそん影像ゑいざうあり弘法こうばう大師の眞筆しんひつ也正平年中大かんありみことのりあつて請雨じやううはうを一七日此尊像そんざう修行しゆぎやうありければたちまち膏雨かううしきりふつ百姓ひやくせい太平たいへいうた
巨勢こせの金岡かなおかゑかき佛像ぶつざうの一ぢくあり僧都松そうづまつは此寺の北五町にありこれは惠心ゑしん僧都こゝに來ちつし給ふ所とかや
梵字芝ぼんじしばといふあり髙倉たかくら村より十町ばかり東にして地上に梵字ぼんじかたちなかくぼなる地ありとしれどもうづもれずまた芝生しばふしようぜずといふ
すべ當院たうゐん閑寂かんじやく幽棲ゆうせいにして三密さんみつゆかすゞしく白月はくげつ禅心ぜんしんてらして鬼神きしんもよく服役ふくゑきするの勝地しやうちなり

今に見る大修恵山高倉寺


境内石標「真言宗 一等格院 髙倉寺」
 

高倉寺塔頭寶積院山門
 

山号額「大修恵山」

 

大修恵山高倉寺縁起略記

 高倉寺は真言宗の寺院で修恵寺あるいは大修恵山と呼ばれていましたが「修恵」は須恵(陶)に由来するものと考えられます。行基開創49院のうち、家原寺に次いで慶雲2年(705)に造営された大修恵院と考えられる古寺です。
 当寺に御幸された高倉天皇(1168〜 1179)から多くの朱印地と「高倉山天王院」の山号と寺号を賜りましたが、応仁の乱・永正7年(1510)の大地震・織田信長の焼き討ちにあい、ことごとく失われました。
 真海僧正、ついで僧快盛が復興に努め、天正末年には金堂を再建しました。慶長末年(1614)岸和田城主小出播磨守秀政の三男小出大隅守三尹が分家して陶器村に陣屋をおき、当寺に帰依して諸堂の修理・改築などを尽くしました。
 明治になって本坊、宝積院以外の塔頭・寺院数ケ寺は廃寺となり、現境内地を除く数万坪の土地は上地されました。

【出典:堺市設置境内案内板】

伽藍


金堂
 

真横から望む金堂
 

御影堂
 

寶起菩薩堂
 

大日堂
 

阿弥陀堂
 

弁財天
 

鐘楼堂
毎年、大晦日から元旦にかけ「除夜の鐘」が打ち鳴らされています