金凉山願泉寺
願泉寺
卜半自坊
世に貝塚御坊といふ
貝塚にあり眞教院卜半と号す貝塚一縣を領す
宗派は表裏御門跡御宗義を以て東叡山に属して正院家たり
本尊阿弥陀佛
𦚰檀宗祖親鸞聖人眞向の影聖德太子七髙祖の影を安す
當寺はむかし僧正行基畿内に四十九院を草創し給ふ砌此海濵にも佛塲
を建んと思召せとも其㓛ならずして空しく星霜累りぬ
今に沖中に洲出るは此佛縁の験也とそ
天文年中漸佛堂舎屋隆興すといへども天正五年の頃紀州雜賀一揆貝塚に乱入す
其時織田信長の下知として堀久太郎秀政來ツて一揆を鎭む
此時堂舎頗る荒蕪に及ぶ而后本願寺第十一世顕如上人開基し給ひ
舊此上人は第八代蓮如上人より大坂石山御堂にまし〱海内に宗風を輝し給ふ
信長思慮して石山の地は要害堅固にして畿内の勝地也
本願寺を他境へ退去なさしめ本城を築かんとて多年合戦に及ふ事は信長記拾遺に詳也
遂に勅を蒙りて顕如上人を紀州雜賀に赴くなをも信長野心を懐き石山退去の砌軍勢をもつて追討にせんと計る
此時顕如上人危急存亡の辰也貝塚卜半に急難を救はん事を乞たまひて一通の懇書を贈り給ふ
卜半此節紀泉兩國の門徒をかたらひ忠誠を励まし上人を石山より恙なく退去なさしめ泉州の敵勢を鎭め紀州雜賀に送り奉る
天正の頃には顕如上人の嫡男教如上人も信長と不和により三ケ月許潜居し給う
顕如上人在住の時に堂下の池中に岐枝の蓮咲り世に双頭の蓮は稀にありといへとも荷莖の双枝なるは古今希代也
本願寺宗風表裏二派に分れ法流倍興隆の霊瑞也とて人々甘心せり
此双枝の蓮華今に本尊檀上の莊厳の圖に遺れり
信長亡びて後天正十三年顕如上人攝州天満に遷り給ふ砌當寺を卜半に附属し給ふ
寺式は上人在住の規則を以て勤行あるべき㫖遺命によつて今に於て舊式に変る事なし
これ全ク卜半一宗に㓛あるによつて也
毎歳霜月の報恩講には自他宗群をなし貝塚町々に市店を飾て賑しき事稲麻の如し