日根郡
東南は紀州那賀名草二郡の界に至る西は滄海北は泉南郡の界に限る
大和物語云
𠅘子院のみかと宇多天皇又寛平法皇と号す𠅘子院は七条坊門の北西洞院の西二軒今の西六條の内也おりゐ給て又のとしの秋御くしおろし給てところ〱山ふみし給ておこなひ給ひけり
備前のせうにてたちはなのよしとしといひける人内におはしましけるとき殿上にさふらひて御くしおろし給けれはやかて御ともにかしらおろしてけり
人にもしられ給はてありき給ひける御供にこれなんをくれ奉らてさふらひける
かゝる御ありきしたふいとあしき事なりとて内より少將中將これかれさふらへとてたてまつらせ給ひけれとたかひつゝありき給ふ
いつみの國にいたり給てひねといふところにおはしますよありいと心ほそうかすかにておはします事をおもひていとかなしかりけり
さてひねといふことをうたよめとおほせことありけれはこのよしとし大とく
新古今
ふるさとをたひねのゆめに見へつるはうらみやすらんまたととはねは
とありけるにみな人なきてえよますなりにけり
その名をなん寛蓮大とくといひてのちまてさふらひける
古今六帖
いつみなるひねのこほりのひねもすにこひてそくらす君はしるらん 滋春
大和物語云
𠅘子院のみかと宇多天皇又寛平法皇と号す𠅘子院は七条坊門の北西洞院の西二軒今の西六條の内也おりゐ給て又のとしの秋御くしおろし給てところ〱山ふみし給ておこなひ給ひけり
備前のせうにてたちはなのよしとしといひける人内におはしましけるとき殿上にさふらひて御くしおろし給けれはやかて御ともにかしらおろしてけり
人にもしられ給はてありき給ひける御供にこれなんをくれ奉らてさふらひける
かゝる御ありきしたふいとあしき事なりとて内より少將中將これかれさふらへとてたてまつらせ給ひけれとたかひつゝありき給ふ
いつみの國にいたり給てひねといふところにおはしますよありいと心ほそうかすかにておはします事をおもひていとかなしかりけり
さてひねといふことをうたよめとおほせことありけれはこのよしとし大とく
新古今
ふるさとをたひねのゆめに見へつるはうらみやすらんまたととはねは
とありけるにみな人なきてえよますなりにけり
その名をなん寛蓮大とくといひてのちまてさふらひける
古今六帖
いつみなるひねのこほりのひねもすにこひてそくらす君はしるらん 滋春