04-02100 塙直之墓 淡輪重政墓

塙直之ばんなをゆきのはか 淡輪重政たんのわしげまさのはか

俱にかしの井村北の入口路傍ろばうにあり 元和元年四月こゝに於戦死す
或記曰あるきにいはく元和元年四月廿七日紀伊國淺野但馬守長晟八千の軍士を卒して攝州大坂に向ふ
先陣は淺野左衛門佐 上田主水もんど 多助左衛門等泉州安松村に到る
時に同國尾﨑 吉田九右衛門馳來て告て曰明廿八日大坂大野主馬助治房二萬騎を卒して但馬守出陣の跡をうかゞふて攻討んとす
衆議既に決定せり三將これを聞てすなはち軍旅ぐんりよの事を問ふ
九右衛門が曰此地さいはひに舟岡山あり又二つの池あり四方みな水田なりもとも守戦に利多しといへとも人馬の來往自由ならす
もし進退度しんたいどに當変化へんくはをうせんとほつせは則陣を信達しんたち村の懸岸の上に張てかしの井川を前にして戦はんにはと答ふ三將これを也とて共にたく
南軍なんぐん𣁽くはい士は上田主水もんど 亀田大隅 多湖助左衛門 横江平左衛門 水谷又兵衛 髙河原小平太 横関新三郎なり 上田 亀田共に武名を振ふ
大野主馬助の先㔟さきせい既に佐野村に陣す𣁽將くはいしやうばんだん右衛門直之なをゆき 淡輪たんのわ六郎兵衛重政なり
團右衛門はきこゆる猛勇もうゆうなれば竪横じうわう無盡に切て廻り敵あまた討取暫く猶豫ゆうよの所に多湖たこ助左衛門か放つ矢だん右衛門がひたひあたるよと見へしが馬より下にどうとをつ
其時八木新左衛門馳來て首を
淡輪たんのわは團右衛門か戦死を見て今はかうよと思ひ四角八方に切り廻り終に討死し首を永田治兵衛にとられけり
次の將士岡部大学創疵やりきずかうむる然りといへとも岡部 金丸等尚も命を塵芥ぢんかいよりもかろんじて短兵たんへいきうに攻戦ふ
南軍氣疲きづか息絶いきたへおぼへず南の河原に引退く
但馬守の陪臣ばいしん小野慶雲けいうんといふものあり老剛らうがう勇士ゆうし
旗本の諸士をはげましてくつばみをならべて一度にかく
北軍は此いきほひ辟易へきゑきしてつひ敗北はいぼく
此時大將大野主馬助は貝塚かいづか願泉寺ぐはんせんじ卜半ぼくはんに在てゑん
一陣すでに敗れたりと聞てにはかに馬を進むといへとも南軍早く椿つばき坂に退しりぞ
こゝに至てくゆれども其益なし故に火をかしの井の人家に放て攝州に帰る
此時岸和田の城主小出大和守いくさを出して敗士を追ふ
一戦にも及はす大坂の城ににげ入る
南方の三將の下に首十三を得たり