塙直之墓 淡輪重政墓
俱に樫井村北の入口路傍にあり 元和元年四月こゝに於戦死す
或記曰元和元年四月廿七日紀伊國淺野但馬守長晟八千の軍士を卒して攝州大坂に向ふ
先陣は淺野左衛門ノ佐 上田主水 多湖助左衛門等泉州安松村に到る
時に同國尾﨑 吉田九右衛門馳來ツて告て曰明廿八日大坂大野主馬助治房二萬騎を卒して但馬守出陣の跡を窺ふて攻討んとす
衆議既に決定せり三將これを聞て即軍旅の事を問ふ
九右衛門が曰此地幸に舟岡山あり又二つの池あり四方みな水田なり最守戦に利多しといへとも人馬の來往自由ならす
若進退度に當変化氣に應せんと欲せは則陣を信達村の懸岸の上に張て樫井川を前にして戦はんにはと答ふ三將これを可也とて共に諾す
南軍の𣁽士は上田主水 亀田大隅 多湖助左衛門 横江平左衛門 水ノ谷又兵衛 髙河原小平太 横関新三郎なり 上田 亀田共に武名を振ふ
大野主馬助の先㔟既に佐野村に陣す𣁽將は塙ノ團右衛門直之 淡輪六郎兵衛重政なり
團右衛門は聞ゆる猛勇なれば竪横無盡に切て廻り敵あまた討取暫く猶豫の所に多湖助左衛門か放つ矢團右衛門が額に中るよと見へしが馬より下にどうと落
其時八木新左衛門馳來ツて首を取る
淡輪は團右衛門か戦死を見て今は斯よと思ひ四角八方に切り廻り終に討死し首を永田治兵衛にとられけり
次の將士岡部大学創疵を被る然りといへとも岡部 金丸等尚も命を塵芥よりも輕んじて短兵急に攻戦ふ
南軍氣疲れ息絶て覺へず南の河原に引退く
但馬守の陪臣小野慶雲といふものあり老剛の勇士也
旗本の諸士を勵して轡をならべて一度に駈る
北軍は此㔟に辟易して竟に敗北す
此時大將大野主馬助は貝塚願泉寺卜半に在て宴ず
一陣已に敗れたりと聞て遽に馬を進むといへとも南軍早く椿坂に退く
こゝに至て悔れども其益なし故に火を樫井の人家に放ツて攝州に帰る
此時岸和田の城主小出大和守師を出して敗士を追ふ
一戦にも及はす大坂の城に逃入る
南方の三將の麾下に首十三を得たり
或記曰元和元年四月廿七日紀伊國淺野但馬守長晟八千の軍士を卒して攝州大坂に向ふ
先陣は淺野左衛門ノ佐 上田主水 多湖助左衛門等泉州安松村に到る
時に同國尾﨑 吉田九右衛門馳來ツて告て曰明廿八日大坂大野主馬助治房二萬騎を卒して但馬守出陣の跡を窺ふて攻討んとす
衆議既に決定せり三將これを聞て即軍旅の事を問ふ
九右衛門が曰此地幸に舟岡山あり又二つの池あり四方みな水田なり最守戦に利多しといへとも人馬の來往自由ならす
若進退度に當変化氣に應せんと欲せは則陣を信達村の懸岸の上に張て樫井川を前にして戦はんにはと答ふ三將これを可也とて共に諾す
南軍の𣁽士は上田主水 亀田大隅 多湖助左衛門 横江平左衛門 水ノ谷又兵衛 髙河原小平太 横関新三郎なり 上田 亀田共に武名を振ふ
大野主馬助の先㔟既に佐野村に陣す𣁽將は塙ノ團右衛門直之 淡輪六郎兵衛重政なり
團右衛門は聞ゆる猛勇なれば竪横無盡に切て廻り敵あまた討取暫く猶豫の所に多湖助左衛門か放つ矢團右衛門が額に中るよと見へしが馬より下にどうと落
其時八木新左衛門馳來ツて首を取る
淡輪は團右衛門か戦死を見て今は斯よと思ひ四角八方に切り廻り終に討死し首を永田治兵衛にとられけり
次の將士岡部大学創疵を被る然りといへとも岡部 金丸等尚も命を塵芥よりも輕んじて短兵急に攻戦ふ
南軍氣疲れ息絶て覺へず南の河原に引退く
但馬守の陪臣小野慶雲といふものあり老剛の勇士也
旗本の諸士を勵して轡をならべて一度に駈る
北軍は此㔟に辟易して竟に敗北す
此時大將大野主馬助は貝塚願泉寺卜半に在て宴ず
一陣已に敗れたりと聞て遽に馬を進むといへとも南軍早く椿坂に退く
こゝに至て悔れども其益なし故に火を樫井の人家に放ツて攝州に帰る
此時岸和田の城主小出大和守師を出して敗士を追ふ
一戦にも及はす大坂の城に逃入る
南方の三將の麾下に首十三を得たり