衣通姫舊蹟
衣通姫は粧粉を施さずしておのづからの美艶あり
楚辞に見えたる朱唇 皓歯 豊肉 娉目 遠山の眉濃也
其上和哥の三聖の内なれば此許に允恭帝のつねに通ひ給ふも冝ならん哉
上ノ郷中村にあり土人衣通姫の手習所といふ
五十年前小社あり社の傍に池あり封境方一町許毎歳正月七月燈明を挑ぐ
近耒壊て糞田とし小社も亦泯滅して所の惣墓とす嘆息するに堪たり
今纔に小池を遺す池の傍に柿の木一株を栽たり
日本紀曰
允恭天皇八年春二月衣通郎姫奏して言
妾つねに王宮に近て晝夜相続て陛下の威儀を視んと思ふ
然るに皇后は則妾が姉なり妾によつて恒に陛下を恨給ふ亦妾これを苦しむ
こゝを以て冀王宮を離れて遠く居しめんとおもふ然らば皇后の嫉意少し息ん
天皇即宮室を河内の茅渟に和泉國 即此地なり興造て衣通姫をこゝに居らしめ給ふ
因茲時〱日根野に遊猟し給ふ
同九年春二月秋八月冬十月みな茅渟宮に幸し給ふ同十年春正月茅渟に幸す
於是皇后奏して言
妾如毫毛も弟姫を嫉にあらず陛下時々茅渟に幸し給ふ事是百姓の苦なり
仰ぎ願は車駕の数を宜除給ふべしとありければ其後は希有に幸まし〱けり
同十一年春三月茅渟宮に幸し給ふ
衣通姫歌て曰
等虚辞陪邇枳彌母阿閇椰毛異舎儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘
天皇これを聞て給ひて衣通姫に宣ふやうには是歌他人に聴すべからず
皇后聞たまはゞ大に恨給はん故に時の人濵藻を号して奈能利曽毛といふなり云云