小弓宿禰墓
封境方一町許 周池に水を湛ふ
土人これを陵といふ
今に見る西陵古墳(紀小弓宿禰墓)
西陵古墳

西陵古墳 墳丘(右手前に前方部、左奥に後円部)
別名 西二山在古墳
所属 淡輪古墳群
所在地 大阪府泉南郡岬町淡輪
位置 北緯34度19分37.50秒 東経135度10分8.80秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長210m
高さ約15m(後円部)
埋葬施設 (推定)竪穴式石室
(内部に長持形石棺)
出土品 円筒埴輪・器材埴輪ほか
陪塚 3基?(現存2基)
築造時期 5世紀前半頃
被葬者 (一説)紀小弓
史跡 国の史跡「西陵古墳 第一、第二古墳」
特記事項 全国第28位の規模
西陵古墳(さいりょうこふん、西二山在古墳(にしにさんざいこふん))は、大阪府泉南郡岬町淡輪(たんのわ)にある古墳。形状は前方後円墳。淡輪古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。
淡輪古墳群では最大、全国では第28位の規模の古墳で、5世紀前半頃の築造とされる。
概要
大阪府の最南端、大阪湾に面した台地上において丘陵末端を利用して築造された巨大前方後円墳である。別称の「二山在(にさんざい)」は「ミササギ(陵)」の転訛とされる。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方向に向ける。墳丘は3段築成。墳丘外表では葺石が認められるほか、円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪など)が出土している。墳丘の西側くびれ部には方形の造出を有する。また墳丘周囲には幅15-35メートルの周濠が巡らされるが、周濠の元々の形は明らかでない。埋葬施設は明らかでないが、後円部墳頂において竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めたとみられる。かつては長側辺に縄掛突起2個を有する石棺蓋石が露出していたが、史跡指定に伴って埋め戻されている。また周濠の外側では、陪塚3基の存在が知られる(うち1基は消滅)。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀前半(西暦420年-440年)頃と推定される。5世紀代に築造された淡輪古墳群のうちでは、西小山古墳・淡輪ニサンザイ古墳に先行する。これら岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の淡輪技法が認められるが、同様の技法は和歌山平野の木ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも認められることから、紀伊勢力(紀氏)との強い関わりが推測される。
古墳域は1922年(大正11年)に国の史跡に指定されている。
墳丘

西陵古墳の空中写真(2008年)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成。
墳丘の規模は次の通り。
・墳丘長:約210メートル
・後円部 – 3段築成。
・直径:約115メートル
・高さ:約18メートル
・前方部 – 3段築成。
・幅:約100メートル
・高さ:約14メートル
・造出
・西側くびれ部:23メートル×13メートル

墳丘
北西より。左に前方部、右に後円部。

後円部墳頂

後円部から前方部を望む
被葬者
被葬者は明らかでない。岬町の大型前方後円墳2基はいずれも当地の経済力のみで築造されたと考えにくいことから、これらの築造において紀伊勢力(紀氏)の関与が想定される。
一説では、被葬者は『日本書紀』雄略天皇9年3月条・5月条に見える5世紀後半の将軍の紀小弓(きのおゆみ、紀小弓宿禰)に比定される。『日本書紀』によると、紀小弓は新羅征討の将軍に任じられて戦ったが、病気により新羅で亡くなった。そこで天皇は土師連小鳥に命じて、「田身輪邑(たむわのむら)」に紀小弓の墓を造らせたという。西陵古墳がこの紀小弓の墓に比定されるのは、その「田身輪」が「淡輪」に比定されることによる。
そのほか、『和泉志』では紀船守の墓とする説を挙げ、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳のどちらか一方を紀小弓の墓として、もう一方を紀船守の墓とする説を挙げる。ただし、紀船守は8世紀の人物(731-792年)になる。また『南游紀行』では五十瓊敷入彦命とする説を挙げている。
陪塚
西陵古墳の北側には第一古墳・第二古墳の円墳2基があり、いずれも西陵古墳の陪塚とされる。いずれも西陵古墳とともに国の史跡に指定されている。
なお、かつては陪塚とみられる古墳がもう1基存在したが、線路の敷設時に破壊されている。その際に提瓶2個、高坏1個、壺2個、平瓶1個、刀身断片、鉄鏃2本が出土したという。

第一古墳

第二古墳
文化財
国の史跡
・西陵古墳 第一、第二古墳 – 大正11年3月8日指定。
現地情報
所在地
・大阪府泉南郡岬町淡輪
交通アクセス
・鉄道:南海電気鉄道(南海電鉄)南海本線 淡輪駅 (南へ徒歩約15分)
関連施設
・岬の歴史館(岬町孝子)
周辺
・淡輪ニサンザイ古墳 – 宮内庁治定「宇度墓」。
・西小山古墳
アクセス
