01-00303 鉃炮

さかいの名産めいさん

鉃炮てつはう

堺津さかいのつ鳥銃てつはう鍜冶かぢ

ある武士もののふさかいにて鉃炮てつはうかはんとて多く見てこれは何ほどゝとへば
亭主あるじこたへてこれは三匁玉これは五匁玉打候と答ふ
いやいやにあらずは何ほどゝとへは
あるじはポンとぞこたへける

鳥銃てつはうしよ
天文年中南蠻なんばん大舩たいせん筑紫つくしに來る
種子嶌たねがしま時堯ときたかといふもの蠻賈ばんかちやう牟良淑舎むらしゆくしや喜利志侘孟太きりしたもうたの两人にあふ鉃炮てつはうじゆつなら
其後當津たちばな屋又三郎といふ者交易かうゑきのため種子嶌たねがしま滞留たいりうの時鉃炮てつはうせい傳受でんじゆ
帰國きこくの後多く作りてこゝにてあきな
人皆ひとみな鉃炮又てつはうまたといふ
せつには永正年中異國ゐこくより初て和泉の堺に渡す
其頃さう小田原おだはら玉龍坊ぎよくりうばうといふ山伏やまぶしあり
鉃炮をさかいよりもとめ北條はうでう氏綱うぢつなけん
氏綱の長男氏やす當津の鍜冶かぢ國康くにやすよんで多くの鉃炮を作らしむ
明智あけち光秀みつひで鳥銃てつはう妙術めうじつを得たり
さくら町のほとりに鉃炮鍛冶かぢ十九けんあり
其中に榎並ゑなみ勘左衛門公用を勤む

今の堺鉃炮

 種子島への鉄砲伝来は『鉄炮記』に記されている天文12年8月25日(1543)の出来事で、大隅国(鹿児島県)種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人(「しゆくしや」、「もう」)が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田監物算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。
「堺銃」の名で知られた堺の鉄砲は、先述の橘屋又三郎と根来の津田監物算長からその技術を教えられた芝辻清右衛門に始まります。 種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。
現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、市の指定有形文化財になっています。江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」にも記載されおり、わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。
大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し商業のまちとしても成熟していきます。北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。
また、鉄砲鍛冶屋敷の工房の内部の様子は、堺市博物館で再現展示されています。

旧鉄炮鍛冶屋敷 井上関右衛門家(内部非公開)
堺市堺区北旅籠町西1丁3-22


旧鉄炮鍛冶屋敷 井上関右衛門家 前景
 

旧鉄炮鍛冶屋敷 井上関右衛門家 案内板

井上家は、通称「鉄砲鍛冶屋敷」の名で知られている、江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶 井上関右衛門の居宅と作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」(1689年)にも同地で記載がみられます。
敷地は、東側の「中浜筋」から西側の「西六間筋」までを一区画とする広大なものです。敷地内には、主屋に隣接して座敷棟、敷地西側に道具蔵、俵倉、附属棟等が建ち並び、江戸時代の鉄砲鍛冶の屋敷構えをよく伝えています。
 
主屋(おもや)
主屋は、江戸時代前期に建築された通り土間を持つ間口三間半の棟を中心に、北側の間口二間の棟と南側の間口三間の棟により構成されています。
中心の棟では、通り土間に面して3室を配置します。土間は間仕切りで前後に分け、前半部では、南側一間を板間とし、現在はふいご等の鉄砲製作道具等を置いています。後半部は天井を吹き抜けとし、梁(はり)や小屋組等をみせています。北側の棟のコシノマとザシキは、中心の棟のミセノマに取り付き、南側の棟には中心の棟の板間及び土間を介して、表より四畳半2室とブツマ及びシンザシキを設けています。
中心の棟の軸部構成は、両妻側や土間と居室境に「通し柱」を多用し、胴差で固めるという、近畿一円で広く共通して認められる近世町家の典型的構造です。
主屋は、全国的にも数少ない近世初期の比較的小規模な町家建築として大変貴重な遺構です。
 
座敷棟(ざしきとう)
主屋の南側に隣接する建物です。屋敷絵図や水帳等から、寛政5年(1793)に間口3間と2間半の2軒の建物を井上家が購入し、文化10年(1813)に1軒の建物に改造して隠居所として使用されていたものと考えられます。 その後、「中浜筋」に面して、新たに玄関口が設けられ、主屋座敷部分との間の壁も撤去されています。「中浜筋」に面する壁面には鳥居型の痕跡が残っており、昭和30年代頃まで、大門が設けられていたといいます。幕末期には、堺でもトップクラスの鉄砲鍛冶となっていた井上家には、奉行所や取引先の各藩の大坂蔵屋敷などからの要人を迎え入れる時に使用されたものと考えられます。
 
道具蔵(どうぐぐら)
2階建の土蔵です。1、2階ともに1室で、床は板敷としています。2階壁面や軒裏には、鉄製の延べ板が等間隔に打ち付けられています。防犯上の観点からのものか、鉄砲鍛冶であった家業との関連によるものか、興味深いものです。
 
俵倉(たわらぐら)
「米蔵」と伝わっています。1階内部は、南北に分け2室とし、北室は土間床、南室は石敷です。俵を保管する場所らしく、柱間は細かな間隔で間柱が建てられています。
 
附属棟(ふぞくとう)
借家として貸していた建物です。明治以降、井上家は、鉄砲鍛冶の他、金属加工業や醤油製造業等、家業の多角経営を行い成功しており、借家経営もその一環であったものかもしれません。

出典元:堺市 文化財紹介ページ

 

榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡
現「水野鍛錬所」


水野鍛錬所
 

榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡碑
  

榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡案内板 

榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡
 榎並屋えなみや勘左衛門かんざえもん家は、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻しばつじ理右衛門りえもん家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。
 この両家に分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)、榎並屋勘七(忠兵衛)、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(のちに二鍛冶が脱落して三鍛冶)が平鍛冶と呼ばれ、他の鉄砲鍛冶を統制しました。榎並屋勘左衛門家の屋敷は桜之町東1丁で、大道だいどう(紀州街道)に面した東にありました。
 芝辻理右衛門は、徳川家康から大坂城攻めのために鉄張の大砲を作ることを命ぜられ、慶長16年(1611)銃身一丈(約3m)口径一尺三寸(約39cm)砲弾重さ一貫5百もんめ(約5.6kg)の大砲を作りました。
 これは、わが国で作られた鉄製大型大砲のはじめであったといわれています。
 また、大坂冬の陣(1614)の前に1,000挺の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により、元和元年(1615)高須の地(高須神社付近)を賜りました。
 屋敷は、榎並屋勘左衛門家と向かい合って桜之町西1丁で、大道に面して西にありました。
 鉄砲を作る技術はその後、刃物、自転車の製造へとつながり堺の伝統残業の礎となりました。
 現在もこの周辺に刃物、自転車の工場が多いのはそのような歴史を引き継いでいるからです。

堺市

【撮影日:2009年5月10日】

鐵砲鍛冶射的場跡碑


旧ダイセル堺工場(現イオンモール堺鉄砲町)の一角に建てられていた
鐵砲鍛冶射的場跡碑
現在は、南海本線「七道駅前」に「放鳥銃定限記碑」と並び建てられています

堺砲術発祥之地
 鉄砲の本土伝来については諸説があるが,天文十二年(1543年)種子島に渡来し,その後,橘屋又三郎によってその製銃法が堺に伝えられたといい,また,紀州の住人津田監物等長が種子島で製銃法を習得し,これを芝辻清右衛門に伝えたとも言われている。時,あたかも戦国時代末期のことである。
 その後,江戸時代にかけて ,堺は全国諸大名に鉄砲を供給し最盛期には三十余軒の鉄砲鍛冶が軒を並べていた。この地から東南数百米の一帯にその跡が残っている。
 鉄砲の普及にともなって砲術が興隆した。「放鳥銃定限記」の碑文によれば,小浜民部丞嘉隆はこの道に練達し,堺七道浜に鉄砲射的および兵しょうを設け子弟に砲術を指南したという。その射的場はこの附近一帯にまたがっていた。
 ちなみに『三宝村誌』に「七道停留所より西に下り右手畑中に周囲五間高さ壱間ばかりの小丘あり,是は元鉄砲打場の旧蹟にして,昔はその周囲十間四方高さ四間ばかりの小丘を築き,尚外周囲に四十間四方あり,三方小溝を以て囲繞いじょう枳穀きこく垣を設けたり。堺肆に於て鉄砲製作毎に大和川堤塘ていとうに的を立て此所より試撃するの慣例たり」とある。この小丘は鉄砲塚と呼ばれ,昭和十年代の初期までは,この地のすぐ南に存在していた。
 現在この附近の町名を鉄砲町というのは,このような堺鉄砲の発祥にゆかりが深かったからといえる。 なお,「鉄砲鍛冶射的場跡」の石碑は,もとはこの鉄砲塚の上に建てられていたものであるが,鉄砲塚が撤去された際にその区画の一隅に移されていたものを,このたび,新七道駅前整備の一環として現在地に移設し保存するものである。

昭和五十四年五月

ダイセル株式会社
三宝校区自治会連合会

【出典元:鐵砲鍛冶射的場跡碑前設置案内板】

 

放鳥銃定限記碑


南海本線「七道駅前」に建てられている「放鳥銃定限記碑」

 放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)
 わが国に初めて鉄砲が伝来したのは、天文二年(1543)のことです。
 堺の貿易商人橘屋又三郎はいちはやく種子島より鉄砲の製造技術と射撃術を持ち帰ったと言われます。また、紀州根来寺の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り、堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を造らせました。清右衛門は、豊臣秀吉の「根来攻め」のあと堺にもどって製造を続け、鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となりました。
 堺鉄砲の製造は、芝辻一門、榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によつて国内最大の生産量を誇りました。それとともに試射場も次々とつくられ、このあたりも江戸時代初期につくられた試射場が、昭和の初めまでその面影を残していました。
 大正三年にこの付近で、運河の開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が発見されました。この碑には、寛文四年(1664)砲術家川名金右衛門忠重によって、「鉄砲は優れた兵器で、正しく扱えば命中確実である。しかし、そのためには不断の練習が必要である。小濱民部丞嘉隆は文武両道を兼ね備えた人であり、堺の浜に射撃場を設け砲術家の養成や銃の試射を行うなど、大きな功績を残した。」と、恩師小濱嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
 この碑もまた、堺鉄砲の歴史を物語る貴重な資料です。

 この地に碑の移築について
 運河開削工事の発起人であった柳原吉兵衛は、この碑を後世に伝え讃影するために自然石をくりぬいた中にはめ込みました。その後昭和十九年に堺市に寄贈され長らくザビエル公園内に保存されていましたが、駅前広場の整備に伴い、発見場所に近いこの場所に移設しました。
平成十一年三月 堺市教育委員会

【出典元:放鳥銃定限記碑前設置案内板】

 

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