01-00402 紹鷗

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

紹鷗せうおう

かん居士こじ大黒菴だいこくあんと號す
當津南莊みなみのしやう舳松町へのまつちやうちう
茶道さだう達人たつじんにして都鄙とひ宗匠そうしやうあをひ崇敬そうきやうせり
はし武田たけた因幡守いなばのかみ仲村なかむら名乗なのすなはち武田たけた信光のぶみつ裔孫ゑいそんなり
祖父おほぢ仲清なかきよ應仁おうにんみだれ討死うちじにちゝ信久のぶひさはなれてみなしごなり四方しはう周流しうりう
或時あるときみやこ四條してう蝦子堂ゑびすだう隣家りんか幽棲ゆうせいして大黒菴だいこくあんしやう薙髪ちはつして一閑居士いつかんこじといふ
防州ばうしう大内おほち義弘よしひろ在京ざいきやうの時は時々より〱伺候しこうし又西にし三條逍遥院殿せうようゐんどのちなみ歌道かだうまな
その深志しんしかんじ給ひて古今こきん口傳くでんさつけ給ふ
其頃五條松原町まつはらちやう南都なんと珠光しゆくはう弟子でし宗陳そうちん宗悟そうごといふ数奇者すきしやあり
紹鷗せうおうつ子に此所に至り茶道さだう修練しうれんして
さかいかへついよ〱数奇すきもはらとし
はるはな帰鷹きがんわかれをおしむ時は風爐ふろをかまへ
秋の紅葉もみち鹿しかなくきけ圍爐裡ゐろりにこぞりて長夜ちやうやたのし
或時あるとき紫野むらさきの大林たいりん和尚わしやうしやうして禅法ぜんはう染心ぜんしん四大しだい本来空ほんらいくうさとつ
つい弘治こうぢ元年乙卯十月廿九日そつ
すなはちがい南宗寺なんしうじかく
紹鷗せうおうそく宗瓦そうくはといふ其子を武野たけの安齊あんさいと號す
幼年ようねんには朝藏主てうざうずとて澤庵たくあん和尚の巾瓶きんひん隨侍すいしせられける

 

今に見る紹鷗

武野 紹鷗


武野紹鷗像

堺市博物館前 武野紹鷗像横に設置させた碑石

 
武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) – 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。
幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。
子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。
 

来歴

文亀2年(1502年)、大和国吉野郡で生まれる。紹鷗の末裔が所持している『武野家系譜』によれば、紹鴎は若狭武田氏の出身とされる。武田仲清の孫で、父の名前は信久。母は豪族中坊氏の娘である。祖父・仲清の戦死後、父・信久は各地を放浪の後、「武田が下野した」という意味合いで武野に改姓した。信久は諸国を放浪した後、三好氏の庇護を受け和泉国の堺の舳松村(現・堺市堺区協和町)に定住し、皮屋(かわやの屋号・皮革・武具に関する商い)を営むようになった。父が皮革商(皮多)だったことから「賤民出身」とされる場合もある。

大永5年(1525年)、父の元を離れ、京都の室町通四条で暮らし始める。その翌年の9月13日に連歌会に参加したとの記録が、大阪天満宮所蔵の連歌資料にある。30歳になるまで連歌師をしていたとされる(『山上宗二記』)。

27歳の時(1528年)、当時の最高の文化人であった三条西実隆を訪ね、その後毎回のように立派な土産を持参し、古典や和歌についての教えを受けるようになる。その過程は実隆の日記『実隆公記』に書かれている。

朝廷に献金を行ったこともある。この献金への報いとして因幡守に任ぜられている。

享禄4年(1531年)6月末、山科本願寺のために山科へ向かう。この年6月から、加賀の一向一揆内部で「享禄の錯乱」とよばれる内紛が起こっていた。紹鷗の父が一向宗徒だったらしく、その関連だったと考えられる。8月下旬には帰京し、24日に実隆を訪問している。

享禄5年(1532年)2月、禅宗である臨済宗大徳寺の古嶽宗亘のもとで出家し、紹鷗の法名を受ける。同年8月、京都の法華一揆により山科本願寺が焼き尽くされ、一向一揆が復讐のために京都に攻め込むという噂が流れた。翌年(天文2年)には法華一揆と一向一揆の戦いが大阪や堺で繰り返され、京都の法華宗徒が一向宗の僧をスパイとして殺害する事件も起こっている。禅宗に出家したのは、一向宗との関連からこのような戦乱に巻き込まれることを予感したためだと考えられる。

天文2年(1533年)3月26日、故郷の堺へ移る(『実隆公記』)。その翌年4月、自らが主催した連歌会の発句を実隆に依頼している。

紹鷗は大徳寺の末寺である南宗寺に参禅。大林宗套より嗣法し、一閑斎と号し、大黒庵主となる。

天文11年(1542年)4月3日、奈良の塗師で茶人である松屋久政他三人を茶会に招待し、玉澗の水墨画「波図」を床に飾り、唐物名物の松島の茶壺を用いた(『松屋会記』)。『天王寺屋会記』には、天文18年(1549年)2月13日と天文22年(1553年)12月9日に堺の豪商である津田宗達らを茶会に招待し、唐物名物の茄子茶入を使ったとの記録が残っている。

晩年は、従五位下因幡守に叙された。

弘治元年(1555年)10月29日、54歳で急死。墓所は堺市の南宗寺。
 

紹鷗の茶の湯

『山上宗二記』によれば、紹鷗の茶の湯の最初の師は藤田宗理であり、その後、その師であり珠光の「跡目」とされる宗珠の直弟子になった。『南方録』、及びそのタネ本とされる『堺鏡』には、「珠光の弟子、宗陳・宗悟」の二人に習った、との記述があるが、「宗陳」という茶人は存在せず、『堺鏡』のタネ本である『堺数寄者の物語』には「宗珠・宗悟」とあることから、宗珠の「珠」の字が書き誤って伝わったものと考えられる。もう一人の「宗悟」は、『山上宗二記』によれば宗珠の弟子で、十四屋宗伍のことだとされているが、これも藤田宗理の「理」の字が書き誤って伝わった可能性がある。

紹鴎は三条西実隆から、良い和歌を作るにおいて大事なことは、稽古(勉強・経験の積み重ね)と創意工夫(学んだ通りをするのみではなく、自分で新しく生み出すこと)だと教わった。紹鴎は、実隆から教わったこの思想を、茶道にも取り入れてゆくこととなった。また紹鴎は実隆より、藤原定家の『詠歌大概之序』を伝授され、そこから茶道の真髄に目覚めたという。

32歳の時、奈良にある漆問屋の松屋を探訪、そこに飾られていた、徐熙の「白鷺の絵」を見て、村田珠光の茶道の茶味に目覚めた、という伝承がある。この白鷺の絵は非常に美しい絵であり、表装も煌びやかであった。村田珠光は、その表装をあえて枯淡なものに差し替えた。それを見て紹鴎は、枯淡な表装と美しい絵のコントラストの中に珠光の茶味を見出した、というのがこの伝説の趣旨である[18]。この伝説は喧伝され、千利休も殊更に喧伝した。ついには、「白鷺の絵を見ていないものは茶人に非ず」というような言葉さえ飛び出すようになるほどであった。

大名物茶入「紹鷗茄子」の所持者であったこともある。

紹鷗の茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって継承された。特に利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いており、これによって紹鷗の名声が広く知られることとなった。

紹鷗の茶室
『山上宗二記』には、紹鷗の四畳半茶室の図が載っており、紹鷗当時の茶の湯座敷が看取できる。それによると、北向き、上り口にすのこ縁が付き、檜の角柱、張付壁、床は一間床、床框は「クリノ木、カキアワセニクロク十遍計ヌル」、鴨居内法も「常ノヨリヒキ(ク)シ」とある。なお、偽書の疑いがある『南方録』には、珠光が茶室の壁として張付壁を使っていたのを、紹鷗が土壁に変えた、と記述されている。

弟子である池永宗作による文献には、紹鷗が「茶室の中が明るすぎると、茶道具が貧相に見えてよくない。従って時間帯によって光が強くなる東、西、南向きの窓は避けるべきだ」と考えていたと記されている[20]。

紹鷗は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称した。4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別して称した。後に千利休は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいて、深い混乱を生じさせる事になった。

紹鷗と「わび茶」

現代の「わび茶」の概念を決定付けている『南方録』では、

みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮
という藤原定家の歌を紹鴎の「わび」の心であるとしている。南方録の資料的価値は低いが、最初に和歌の書跡を茶席に取り入れたのは紹鷗である。

『山上宗二記』においては、紹鴎が目指した茶の湯の境地とは

枯れかじけ寒かれ
であったとされる。これは連歌師である心敬の言葉から引いたものである。

桑田忠親は、紹鷗が和歌を学んでいたことには大きな意味があると指摘する。歌道という、藤原定家ら前時代の歌人達によって体系化・整理された文化と茶道が融合し、茶道は芸術的な日本文化に昇華するに至ったと桑田は指摘する[5]。わび・さびの由来である言葉「侘び」「寂び」も歌道由来の言葉、概念であり、これらを茶道の思想に持ち込んだのは村田珠光だとも言われるが、桑田は紹鷗が歌人でもあったことから、わびさびの概念を産み出したのは紹鴎ではないか、と推定している。

他方、神津朝夫は、『山上宗二記』の記述を元に、紹鷗の茶の湯は「わび茶」と呼ぶにはほど遠かったと指摘している。紹鷗は「茶の湯は正風体の盛りに死去」したと記されている他、紹鷗の茶室は、黒漆塗りの縁がつく張付壁(足利義政の東求堂同仁斎にも使われている壁)であったこと、名物茶道具を60種も所持していたこと、などを理由としてあげている。紹鷗が和歌から学んだのは、古い詞(ことば)を用いて新しい感覚の歌を詠むべき、という美意識を応用した、伝統的に評価の確立している茶道具をつかって新たな趣向を生み出す道具組みだった、としている。

逸話

紹鷗は三好実休と交流があり、彼の茶道の師匠であった。実休が戦死した際、紹鷗はその死を惜しみ、

石川やせみの小河の清ければ 月も流を尋てぞ すむもにごるも同じ江の
浅からぬ心もて何疑の有べき年の箭の早くも過ぎる光陰 おしみても帰らぬは本の水流はよもつきじ 絶せぬぞ手向也ける
と、小歌を歌い、その死に涙を流したと、『十河物語』は伝える。しかし、実休の戦死より数年前に紹鴎は没しており、この話は事実ではない。長江正一は「紹鷗ではない別の茶人が、実休の死を惜しみ鎮魂の歌を歌ったのだろう」と解釈している。また、この話は実休が茶人達より愛された証だとも指摘している。

紹鷗の森

現在の阪堺電気軌道阪堺線の天神ノ森停留場付近の天神ノ森天満宮内に、小さな森があるが、それは紹鷗が晩年隠棲していた跡地であるとされ、そのまま紹鷗の森として残る。

異説

その死因について、織田信長に毒殺されたという説がある。信長から茶頭になるように命令されたが、これを断ったため毒殺されたと伝わる。

しかし、この説は信憑性が極めて乏しい。紹鷗が死没した頃、織田信長はまだ尾張国さえも統一しておらず、彼が茶道への傾倒を始めるのは足利義昭を奉じて上洛して以降であり、尾張にいる彼が堺の紹鴎と接触することさえ現実的に難しい。

このような説が産まれた背景、根拠として、紹鷗の息子の武野宗瓦が、本願寺家のものを妻としていたため、本願寺と内通したとみなされ、本願寺討伐の際信長の手勢から追及され、命を狙われたことが原因とされる。宗瓦は通称を武野新五郎と呼び、父の紹鷗もまた通称を武野新五郎と称したことから、この二人の事績が混同されたと考えられる。

桑田忠親は毒殺説を、とんでもないいい加減で馬鹿馬鹿しい説、と一蹴している。

弟子(あるいは弟子に数えられるとされる人物)

今井宗久
足利義輝
荒木村重
千利休
津田宗及
辻玄哉
細川幽斎
松永久秀
三好実休
長谷川宗仁
丿貫
など

【出典:Wikipedia 武野紹鴎

 

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)

(七九)武野紹鷗
 武野紹鷗名は仲材、幼名は吉野松菊丸、通稱は新五郞、(泉州龍山二師遺藁、大林和尚塔銘幷序裏書、紹鷗位牌、)文龜二年大和の奈良に生れ、後堺に移り、舳松町に住した。享祿三年九月從五位下因幡守に敍任せられた。【家系】(武野家系圖、泉州龍山二師遺藁、茶人系傳全集)武田信光の後裔で、祖父仲清は應仁の亂に戰死し、父信久(新五郞と稱し、法號を乘信禪定門といふ。 泉州龍山二師遺藁)孤兒となつて、四方に流浪し、竟に堺に永住した。(泉州堺南大小路今井氏系圖)紹鷗唯一人の男子として父の鍾愛を享け、其家名流たるを想ひ、自ら姓を武野と改めた。其時の和歌に「たねまきておなしたけたの末なれとあれてそ今は野となりにける」と。(堺鑑下)二十四歳、上洛して和歌を三條西實隆に學び、(堺鑑下、茶人系傳全集)四條夷堂の側に居り、夷大黑は並びものなりとて、【大黑庵】自筆の額を揭げて大黑庵と稱し、享祿四年正月三十歳剃髮して紹鷗一閑居士と號した。(雍州府志卷八、堺鑑下、茶人系傳全集、武野家系圖)其雅號は演雅の詩に「江南水色碧二於天一、中有二白鷗閑似一レ我。」とある句意を採つたのである。其頃五條松原に、珠光の門弟宗陳、宗悟といふ數寄者があつた。紹鷗は茶湯を此二居士に學び、(茶人系傳全集、堺鑑下)傍ら紫野の古嶽和尚に參禪した。(泉州龍山二師遺藁)一日實隆の和歌大槪序の講説を聞いて深く感ずるところあり、【茶湯に親しむ】遂に專ら茶湯に親しみ、(山上宗二記)歸堺の後は北向道陳、集雲菴の岐翁等と相來往して、共に風懷を遣つた。(南坊錄、堺鑑下)【大林に參禪】又南宗寺に大林和尚に參禪し、(泉州龍山二師遺藁)天文十八年八月一閑の道號を授與された。(大林和尚筆一閑道號)今開口神社瑞祥閣の東傍に傳へて紹鷗の茶室と稱するものがあり、又大阪市の南郊住吉天下茶屋の南に紹鷗の杜と稱するところがある。紹鷗頗る此附近の林泉を愛好し、鬱蒼たる林間に茶室を營み、堺と相往來して、閑寂の風雅を味はつた地であると傳へられて居る。(住吉名所圖會卷之一)

 弘治元年十月二十九日享年五十四歳を以て歿した。(大林和尚塔銘幷序裏書、武德編年集成卷三、武野家系圖)或は云ふ、永祿元年十月二十九日と(紹鷗位牌)法號を大黑庵一閑紹鷗居士といふ。(茶人系傳全集)【畫像贊】大林宗套の畫像偈贊に、「曾結彌陀無碍因、宗門更轉活機輪、料知茶味同禪味、吸盡松風未塵。」と、誌されてゐる。(一閑紹鷗居士畫像贊)堺向泉寺に葬り、碑前に石燈籠を置いた(紹鷗傳來道具譯書留寫、桃青寺過去帳、數寄者名匠集)【南宗寺紹鷗塔】今南宗寺に其供養塔のあるのは紹鷗が同寺の外護者たるの關係によるものであらう。瀧澤馬琴の羇族漫錄に、當時鑰代として、錢百文を寺僧に與へると、則ち彼墓の參拜を許したが、傳へて諸人墓前に向ひ、或は耳朶を墓に當てると、土中自から點茶の音があるといふが、是は墓の後に凹むだところがあつて、それへ自然と風の吹入るゝ故であると見えて居る。
 【紹鷗の女】紹鷗に一人の女があつた。之を吉井藤左衞門入道了信に嫁がしめた際、銘宇起州の火筋を婿引手として贈つた。織田信長丹羽長秀を使者として、一覽するよしの命を傳へしめ、後之を返還したが、北野大茶湯に、利休此ことを秀吉に告げ、命により、了信自ら此火筋を携へて、秀吉の一覽に供した。(攝津名所圖會大成(浪速叢書第七輯所收))
 紹鷗の塔は、今井宗久が其二十五囘忌に當る、天正七年六月、玉仲宗琇の銘文を得、【記念塔】記念の爲めに堺鹽穴常樂寺に建てたものであるが、(玉仲遺文)後堺の富豪難波屋某懇望して之を自己の庭内に移したのを、織田長益大阪を去つて、京都の東山に隱栖の際、難波屋に交涉して、之を建仁寺の塔頭正傳院に移した。大正五年男爵藤田平太郞氏の買收するところとなり、(堺市史蹟志料)今は、大阪市北區東野田町二丁目藤田德次郞氏邸内に建てられて居る。
 【門下の逸材】紹鷗の門下中堺人としては、津田宗達、今井宗久、藥師院、辻玄哉、椋宗理、山本助五郞、石橋良叱、太子屋宗高、小西道純(市之町人)小嶋屋道察、鹽屋宗悅、網干屋道琳(大町人)草部屋宗悅、石津屋宗嬰(大町人)伊勢屋宗滴、淡路屋宗和(寺地町人)萬代屋宗味、三二等が聞えてゐる。(茶事談、茶人大系譜、茶家好古集覽、茶人系傳全集、數寄者名匠集) 


第二十三圖版 武野紹鷗供養塔

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史

 

武野紹鴎屋敷跡


武野紹鷗屋敷跡  堺市堺区中之町東2丁

武野紹鷗屋敷跡碑

武野紹鴎は文亀2年(1502)大和(奈良)で生まれ、のち堺に移った。

皮屋の号を持つ豪商の一人。

若い頃、京で三条西実隆さねたかに和歌を、村田珠光じゅこう一門に茶の湯を学び、堺に帰って津田宗及そうきゅう、今井宗久、千利休らに珠光のわび茶を伝え、特に宗久を娘婿にして財産・茶器を譲った。
茶人北向道陳らと交友し、南宗寺の開祖大林宗套だいりんそうとうに禅を学んだ。
南宗寺には紹鴎の供養塔があり、この供養塔に耳をあてるとシュンシュンとお茶の湯を沸かす音がするという。

【出典:屋敷跡案内板】

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