和泉国

国号こくごうの始まり

和泉国の国号の始まりについては、『和泉名所図会』巻之壱の初頭に「和泉国は、・・・」と触れられていますが、ここではその時代背景などについて記したいと思います。
まず、大阪府近辺で言われている国号は、「摂津国せっつのくに」、「河内国かわちのくに」、それとこのサイトのテーマである「和泉国いずみのくに」があります。また、別名では各々国号の一文字を戴いて「摂州せっしゅう」、「河州かしゅう」、「泉州せんしゅう」という呼び名でも言われます。
さて、この『国』ですが、時代は奈良時代まで遡ります。皆さんも、律令制、律令国家と言う言葉を学校の「社会科」や「日本史」の勉強で覚えられたことがあると思います。その当時の天皇・朝廷を中心とした中央集権体制です。
近畿は、当時の天皇が住まわれる都が置かれていましたので、「畿内きない(他にきだい、うちつくにという時もあります)」と言い、五国置かれてたので『五畿ごき』と言います。
また、畿内以外の地方は、7つに区分され『七道しちどう』と言います。
七道には畿内と同じく地方行政の『国』が置かれ、中央の都から派遣された官吏・役人を『国司こくし』と言い、行政機関を『国衙こくが』、国衙の所在地を『府中ふちゅう』、または『国府こくふ』と言います。
因みに、大阪・天王寺から和歌山方面に行くJR阪和線の駅名に「和泉府中駅」というのがあります。現在の大阪府和泉市府中町ですが、『和泉国』の『国衙』が置かれていたので現在の町名になった所です。このように、日本全国に「府中」「国府」と付く地名がたくさんありますが、和泉市府中町と同様に国衙が置かれていた所かも知れません。
また、『国』の下には『ぐん』が置かれ、地方行政官の『郡司ぐんじ』が治めていました。その下には『ごう』が置かれていました。

【五畿七道図】


   畿内    東海道    東山道    北陸道    山陰道    山陽道    南海道    西海道

【出典:ウィキペディア 五畿七道

参考までに全国の国名

畿内・道 国名 別名
(慣用表現)
記事
畿内きない 山城国やましろのくに 山州、城州、雍州
大和国やまとのくに 和州
河内国かわちのくに 河州
摂津国せっつのくに 摂州
和泉国いずみのくに 泉州
東海道とうかいどう 伊賀国いがのくに 伊州
伊勢国いせのくに 勢州
志摩国しまのくに 志州
尾張国おわりのくに 尾州
三河国みかわのくに 三州
遠江国とおとうみのくに 遠州
駿河国するがのくに 駿州
伊豆国いずのくに 伊州
甲斐国かいのくに 甲州
相模国さがみくに 相州
安房国あわのくに 房州
上総国かずさのくに 総州
下総国しもふさのくに 総州
常陸国ひたちのくに 常州
東山道とうさんどう 近江国おおみのくに 江州
美濃国みののくに 濃州
飛騨国ひだのくに 飛州
信濃国しなののくに 信州
上野国こうずけのくに 上州
下野国しもつけのくに 野州
陸奥国むつのくに 奥州 明治元年(1868年)に分割され、陸奥国、陸前国、陸中国、磐城国、岩代国となった。
出羽国でわのくに 羽州 明治元年(1868年)に分割され、羽前国、羽後国となった。
北陸道ほくりくどう 若狭国わかさのくに 若州
越前国えちぜんのくに 越州
加賀国かがのくに 加州
能登国のとのくに 能州
越中国えっちゅうのくに 越州
越後国えちごのくに 越州
佐渡国さどのくに 佐州、渡州
山陰道さんいんどう 丹波国たんばのくに 丹州
丹後国たんごのくに 丹州
但馬国たじまのくに 但州
因幡国いなばのくに 因州
伯耆国ほうきのくに 伯州
出雲国いずものくに 雲州
石見国いわみのくに 石州
隠岐国おきのくに 隠州
山陽道さんようどう 播磨国はりまのくに 播州
美作国みまさかのくに 作州
備前国びぜんのくに 備州
備中国びっちゅうのくに 備州
備後国びんごのくに 備州
安芸国あきのくに 芸州
周防国すおうのくに 防州
長門国ながとのくに 長州
南海道なんかいどう 紀伊国きいのくに 紀州
淡路国あわじのくに 淡州
阿波国あわのくに 阿州
讃岐国さぬきのくに 讃州
伊予国いよのくに 予州
土佐国とさのくに 土州
西海道せいかいどう 筑前国ちくぜんのくに 筑州
筑後国ちくごのくに 筑州
豊前国ぶぜんのくに 豊州
豊後国ぶんごのくに 豊州
肥前国ひぜんのくに 肥州
肥後国ひごのくに 肥州
日向国ひゅうがのくに 日州、向州
大隈国おおすみのくに 隈州
薩摩国さつまのくに 薩州
壱岐国いきのくに 壱州
対馬国つしまのくに 対州

【註】現在の『北海道』という道名は、明治時代になって東海道、南海道などの名前にならって「北海道」と命名されました。

一之宮いちのみや国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじ

一之宮いちのみや

一之宮とは、『国』の中で一番社格の高い神社のことです。
国司が任国に赴任したときに神拜といって任国内の神社を巡拜しなければならなかった。その中でもっとも有力な神社を一の宮と呼ぶようになり、一番初めに参拜しました。国によっては二之宮、三之宮もありました。現在でもその名残りで『一宮』、『二宮』、『三宮』という地名が日本全国に残っています。
因みに、和泉国一の宮は、和泉名所図絵にも載っている『大鳥神社おおとりじんじゃ』です。
また、神社に参詣した時に由緒書を目にする事がありますが、その時に『式内社しきないしゃ』という言葉が書かれていたりします。
この『式内社』とは、平安時代の律令の補助的な法律である『延喜式えんぎしき』の中に『神名帳じんみょうちょう』というのが有り、その神名帳に記載されている神社のことで、時の朝廷が重要視していた神社であると言えます。

国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじ

国分寺こくぶんじとは、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺こくぶんにじとともに建立を命じた寺院ことです。
各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれていました。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物でした。
大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられていました。

和泉国いずみのくに

『和泉国』は、畿内の一国ですが歴史書に寄れば、霊亀2年 (716年) 4月16日に、河内国から大鳥郡おおとりこおり和泉郡いずみこおり日根郡ひねこおりを割いて和泉監いずみげんとされました。この地に離宮として茅渟宮ちぬのみや(珍努宮、和泉宮)が置かれたことで、監という特別な行政区になったと考えられます。
天平12年 (740年) 8月20日に和泉監が廃止され河内国に合わされました。 天平勝宝8年 (天平宝字元年、757年) 5月8日に、和泉国として再び置かれました。

郡は、前述しました『大鳥郡』、『和泉郡』、『日根郡』の三郡置かれていました。
後に和泉郡を割き『泉南郡せんなんこおり』が置かれ四郡に成りました。

国府は、和泉郡にあって現在の和泉市府中町にあり、建物跡が発掘されています。守護所は、国府のそばにありましたが、室町時代に堺に移されました。
一の宮は大鳥神社おおとりじんじゃ(堺市西区鳳北町)である。二宮は穴師神社あなしじんじゃ(泉大津市豊中町)で、三宮は聖神社ひじりじんじゃ(和泉市王子町)、四宮は積川神社つみかわじんじゃ(岸和田市積川町)、五宮は日根神社ひねじんじゃ(泉佐野市日根野)と続きます。惣社は国府そばにある泉井上神社いずみいのうえじんじゃ(和泉市府中町)です。
国分寺は、護国山福徳寺ごこくさんふくとくじ(和泉市国分町)で、僧寺だけで尼寺は設置されませんでした。