名所図会

名所めいしょ図会ずえ

「名所図会」は、江戸時代中期の上方の作家秋里籬嶋あきさとりとうと画家竹原春朝斎たけはらしゅんちょうさいが生み出した版本の一様式のことです。

「名所図会」の「名所」とは、本来は和歌の世界で伝統的に詠まれてきた名所旧蹟などの場所(歌枕うたまくら)のことをさす言葉です。

一方「図会」とは、「絵を集めること」を意味します。「歌人は居ながらにして名所を知る」という諺がありますが、歌詠みは当然歌枕を知らずに済まされなかった。そのため、中世には歌枕を分類してまとめたり、歌枕を詠んだ歌を集めた書物も出版されました。(『能因歌枕』、『歌枕名寄』など)

近世に入ると狂歌師や医者や僧侶などが名所(歌枕)を歌に詠みながら旅をするという形式の通俗的な読み物(「名所記」)が作られるようになりました。浅井了意あさいりょういの『東海道名所記』、『出来斎京土産できさいきょうみやげ』が代表的なものです。

絵については、『名所記』の挿絵は極めて素朴なものに過ぎませんでした。
これに対して、安永9年(1780年)に秋里籬嶋、竹原春朝斎によって作られた『都名所図会』は、京の都の神社仏閣を始め、町々の小祠に至るまで実地に調査し、簡潔な文章と繊細な鳥瞰図と詩歌によって都およびその周辺の名所を網羅的に紹介したもので、娯楽性と実用性を合わせ持つ総合的な地誌がここに誕生しました。『都名所図会』は、爆発的な売行きを見せ、以後同様の形式のもとに、続々と『名所図会』が刊行されました。

名所図会の流行には、江戸時代の消費活動および人や物の移動の活発化、識字人口の増大など社会的経済的要因が大きく関わっていました。
名所図会は、最初職業作家と絵師とのコンビで作成されましたが、地方の篤志家や好事家たちの中には、国学の浸透・幕府の学問奨励・考証主義の流行などに刺激され、私財を傾けて出版する例(『紀伊国名所図会』、『江戸名所図会』)もあります。それらは郷土や先祖に対する使命感に支えられた出版でした。また、薩摩藩のように藩が総力を挙げて編纂する例もありました。

『名所図会』の刊行は、幕末明治まで続きましたが、そのピークは、寛政年間(1790年~1801年)と天保年間(1830年~1844年)でした。

名所図会は、人々の意識の上のみならず、各方面に様々な影響を与えました。神社仏閣の鳥瞰図のみならず、年中行事や祭礼などを写した風俗図を通して、人々は遠く離れた土地の具体的なイメージや情報を得る事が可能になりました。
各地の伝説や説話や物語も絵画化されることでより具体的なイメージを読者に与えた事でしょう。

名所図会に載っている説話をもとにして、戯作家が読本や合巻など伝奇性の強い作品を創作してことは周知のことです。
さらに、図会は各所に留まらず、刀剣や古器や古文書などへと対象を拡大し、学問と連携しながら人々の知識の増大に寄与していました。

■江戸時代の中期から幕末にかけ刊行され『名所図会』

年号 西暦    刊行され書名
安永9年 1780 『都名所図会』 刊
天明6年 1786 『都名所図会』 再刊
天明7年 1787 『拾遺都名所図会』 刊
寛政3年 1791 『大和名所図会』 刊
寛政6年 1794 『住吉名勝図会』 刊
寛政8年 1796 『和泉名所図会』 刊、『摂津名所図会』 後半四冊刊
寛政9年 1797 『東海道名所図会』 刊、『伊勢参宮名所図会』 刊
寛政10年 1798 『摂津名所図会』 前半八冊刊
寛政11年 1799 『都林泉名勝図会』 刊、『日本山海名産図会』 刊
享和元年 1801 『河内名所図会』 刊
文化2年 1805 『木曽路名所図会』 刊
文化3年 1806 『唐土名勝図会』 刊、『薩摩名勝志』 刊
文化8年 1811 『紀伊国名所図会』 初編刊
文化9年 1812 『紀伊国名所図会』 二編刊、『名山図会』 刊
文化11年 1814 『近江名所図会』 刊、『阿波名所図会』 刊
文政7年 1824 『鹿島名所図会』 刊
天保5年 1834 『江戸名所図会』 前半十冊刊
天保7年 1836 『江戸名所図会』 後半十冊刊
天保8年 1837 『日光山志』 刊
天保9年 1838 『紀伊国名所図会』 三編刊
天保13年 1842 『藝州厳島図会』 刊
天保14年 1843 『三国名所図会』 刊
弘化元年 1844 『尾張名所図会』 前編刊
弘化4年 1847 『金毘羅参詣名所図会』 刊
嘉永6年 1853 『讃岐国名所図会』 刊
安政5年 1858 『利根川図志』 刊

【註】以上、鹿児島大学付属図書館解説を参考にしました。

和泉いづみ名所図会めいしょずえ


 

管理人所蔵 和泉名所図会

『和泉名所図会』は、上記の「名所図会」の項でも述べましたように、著述 秋里籬嶋、画工 竹原春朝斎のコンビで寛政八年(1796年:11代将軍家斉の時代)に刊行された名所図会で、巻之一 大鳥郡、巻之二 大鳥郡、巻之三 和泉郡、泉南郡、巻之四 日根郡の全四巻からなっています。

和泉名所図会の序に次のように記されています。

人間之楽莫若游名山水而養吾邦称三絶景如松島如厳嶋天橋立聞在殊寺至於霊祠名刹及古跡之見歌詠者櫛比鱗次則畿内其尤也言参也冠裳所抅歩山城一対猶々弗能披喩況其它類之毎観図懸僅慰懐而巳今観比諭於和泉佳勝靡所不多其喜可知也此其所問不取外而弁言於巻端言爾

寛政乙卯初冬
   正二位花山院大納言愛徳卿
      通斎主人識
(浅学の当サイト管理人には、解読できない漢字の羅列ですが、追々と解読し解説する予定にしています。)

和泉名所図会の最初の『凢例はんれい』には、次のように記されています。
『一 此書このしょ攝河泉三州せつかせんさんしうの内なり さき山城やましろ大和やまとあらはす 於是ここにおいて五畿内ごきない名所圖會めいしよずえ全部ぜんぶなる
一 和泉國いづみのくに北極ほくきよく封域ほうゐく世俗せぞく堺津大小路さかいのつおおせうぢ攝泉せつせんさかいとす しかれども反正天皇はんしやうてんわうみさゝぎ髙須寺たかすでら舊蹟きうせき七堂濵しちだうがはま大小路おおせうぢよりきた
國史こくしにみな和泉國いづみのくにとす かるがゆへ旧史きうしもとづい堺一津さかいいつしん此書このしよあらは
一 神社じんじや延喜式ゑんぎしき神名帳しんみやうちやうよつってす 大廈たいか小祠しょうしせず。たヾ由縁ゆゑんしる而巳のみなり
一 寺院じいん郷中村里がうちうそんりおほし 由到ゆちあるをえらんしよ新建しんこん浄刹しやうせつ墳寺ふんじ道場だうじやうたぐひおほくこれをはぶ
まさ堺津さかいつ仏院ぶつゐん庵室あんじつとうすべて百八十六箇所かしよあり これらもみぎれいじゆんしてえらんで
一 和泉国いづみのくにに於て泉式部いつみしきぶ旧蹟きうせきといふものほぼ多し 軒端梅のきばのむめ恋覚淵こいさめのふち楊枝やうじ清水しみづ鏡石かゝみいし鉄醤壺かねつぼ出誕しゆつたん没卒ぼつそつところ等あり
式部しきぶ和泉守いづみのかみ道貞みちさだ任國にんこくしてこゝにきよす 其時そのとき式部しきぶまたこゝにきたたま
しかれども和歌わかきこへず ほとんど信用しんようがたし 於是こゝにおいておほくこれをのぞく』

【管理人注釈と疑問】
この和泉名所図会を含めた古書を読む時に、学生の頃古文を苦手としていた管理人にとって漢字、送り仮名が現在と異なるため難儀しながら何とか読破しようと頑張っていますがなかなか読み通すことが出来ません。
そんな状態ですが、ひとつの疑問点があります。

疑問なところは、この凡例の中で、『於是(ここにおいて)、五畿内名所図会全部と成る。』と記されているのでが、書かれた文字のとおり読めば、「この和泉名所図会で五畿内すべてが完成した。」となるのでが、この和泉名所図会の刊行された5年後に『河内名所図絵』が刊行されています。
なぜ、『五畿内名所図絵全部と成る。』と記されたのでしょうか。刊行は後になったが、河内国を先に調査をしていて、和泉国の調査が一番最後に完了した、ということなのでしょうか。 これは、今後調査をしたいと思います。

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