01-01200 如意明神

如意によゐ明神やしろ

町の東宝巌菴の内にあり
住𠮷旧記曰如意明神は彦炎出見尊を祭る也
海臺わたつうみに入干滿かんまん宝珠ほうしゆを得給ひてよりよろづこゝろのごとく行ひ給ふ
於是こゝにをいて如意寳珠の義をもつて神号ありけるとかや
世人よのひとこれを子卯ねうの社ととなへ或は子亥ねいの神とも呼ぶ
此地も初は住𠮷の領地なり
甘露寺親長卿記云
 文明十五年三月廿五日三村みつのむらならびに子亥ねいの御前等に参詣す
逍遥院記云
 廿八日あみた寺へ招請ありしかはまかりむかひて大師の御作の弁財天なとおかみ尊くなん侍る
 ちかき寺の風呂に入て夕津けて帰るほどに堺の濵を見めぐりて光明院にかへりし
宝巌菴ほうげんあんは阿弥陀寺と号す
近き寺の風呂は今の旭蓮社ぎよくれんしや塩風呂しほふろなるべし
光明院共に次下に見へたり

 

今に見る如意明神ノ社


向泉寺跡碑と並ぶ如意神社跡碑(堺市堺区市之町東4丁)

如意明神ノ社は、浄土宗阿弥陀寺境内に所在し村社に列せられたが、明治二十六年方違神社に合祀された。

【出典:堺市設置如意神社跡碑碑文】

向井神社について堺市史では次のように記されています。
 明治二十六年六月市之町東五丁別当阿弥陀寺の奉祀した無格社如意神社及び末社彦天津積神社を合祀した。境域千六百二十一坪、本殿、幣殿、拝殿、神輿庫を具へ、境内に愛宕神社、神明社の外に小祠四社があったが、明治四十年十月方違神社に合祀された。(向井神社調査書)

【出典:堺市史】

ということで、「如意神社跡碑」では、明治二十六年に方違神社に合祀されたと記されていますが、正確には向井神社に合祀され、更に向井神社が明治四十年に方違神社に合祀された、ということになります。

 

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