少林寺
禅宗 紫野大德寺黄梅院に属す
本尊阿弥陀佛
座像 壱尺余
開基桃源和尚
元德年中の建立也
いにしへは兆域廣し今の寺地町少林寺町みな境内なり
中頃漸衰微に及ぶといへども當兩町の地子を當寺に収む
台命によつて堺町中の地子免除せらるゝの時當寺領もこれを免す
初メ小林といふもの檀越として創建ゆへ小林と書しを達磨大師の少林寺に表して少の字に改む
通心霊祠
玄中記には
百歳の狐は美女となると見へたれどこれは白藏主に化して甥の猟人を教化す
其狂言をするには堺の少林寺通心廟の竹を伐て杖にする事を習ひとすとぞ聞へし
祭神稲荷大明神俗に釣狐社といふ
永德年中に耕雲庵といふ當寺の塔頭あり
其住侶を白藏主といへり
この僧稲荷大明神を常に信仰し毎日法施怠らず
或時明神感應あつて竹林より三足の白狐出現せり
即抱帰りて養愛す
此狐霊あつて隨仕の用を達し又盗難を避る事あり
伯藏主の甥に猟を好むあり
かの白狐此者を恐れ伯藏主の体に化て其甥の家に行
殺生の罪をさま〱語り戒めけるに
此おのこ敏きものにて狐の僧に化たる事をしり
密に道を出て其術をつくし猟しけると也
これを狂言師大蔵といふ者工夫をめぐらし
野干の所作を狂言に作り釣狐又は吼噦とも名づけたり
彼狐大蔵がこゝろをこめしを感じ
又老僧と化し野干の骨髄の動を教しとなり
其より此狂言を初メと行ふ時は此寺に來ツて
かの白狐の棲し竹林の小篠を伐て杖となす事此狂言の故実なる
享保十八年京師吉田家より通心霊社と神号を與へられしなり
今に見る萬年山少林寺
萬年山少林寺山門
庭園の蓮花
通心霊社
白藏主大明神
額「白藏主」
境内庭園
永徳元年(1381)塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に参籠して霊狐を得、狂言大蔵流の始祖霊狐の所作を狂言に作り、釣狐として上演されました。以後狂言歌舞伎関係者は釣狐上演の際は当寺に参詣し技芸の上達上演の成功を祈願し寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらい持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっています。
【出典:堺市設置案内板】
少林寺 (堺市)
少林寺(しょうりんじ)は、堺市堺区にある臨済宗大徳寺派黄梅院末に属する寺院。山号は萬年山。
歴史
1330年に挑源宗悟が開山した。寺号は、開甚大檀越小林修理亮(小林上野守)の姓をとり「小林寺」としたが、のちに菩提達磨の少林寺にならって「少」の字に改めた。本尊は釈迦牟尼佛、鎮守白蔵主稲荷明神。1906年には禅通寺を合併した。その鎮守である今池弁財天をまつる。かつての寺の境域は、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまで達していたが、寺地の多くを織田信長に没収され次第に衰退していった。しかしその後も、豊臣秀吉が石田三成と小西行長に命じて境内竹木の伐採を禁止するなど、小さな寺ながら名刹の扱いを受けていた。
1381年に塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得る。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り、『釣狐』として上演した。それ以後、狂言や歌舞伎関係者は『釣狐』を上演する際は少林寺に參詣し、技芸の上達上演の成功を祈願。寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている。1733年京都の吉田家より通心霊社の神号を授与された。
所在地
堺市堺区少林寺町東3-1-18
交通アクセス
阪堺電気軌道阪堺線 寺地町停留場徒歩5分
アクセス