引接寺
時宗勅上山と号す
華洛四条道塲金蓮寺に属す
本尊阿弥陀佛
座像 長壱尺
開基智演上人
貞和三年の草創也
智演は原信州の人姓は源氏は牧野也
八歳にして鎌倉極樂寺良観律師に随身して薙髪し俊澄と号す
十五にして叡山に登り台家の奥旨を極め
和州石寺に詣して弥勒佛の瑞示を蒙り
専念佛の行者と成ツて當津の髙野堂に住す
こゝに三宅十五郎といふ者あり家元来富有なり
其父沈病に罹て將に死んとす
十五郎悲嘆に勝ず七日断食潔齊してこれを住𠮷の神祠に祷る
其時明神夢中に託して曰
堺の海濵に無量寿佛あり此像を尋素て冝しく精舎に安置すべし
十五郎卽かの像を海辺に得て家に帰り父母にこれを拝なさしむ
父の病忽平愈すればこゝに精舎を建俊澄を請して入佛供養の導師とす事
既に叡聞に達し光明帝詔して勅定山と号し引接寺と号く
又俊澄は智演上人と改む
古へは寺地廣大なり
元は住𠮷の社領の内にして社務光禄太夫國夏朝臣應永八年寄附の證文今にあり
旧地は今の宿院の地也
嘉𠮷二年十一月將軍義勝公封田若干を寄附證文あり
又文明二年九月義政公寺地安堵の證印一通あり
今に見る引接寺
引接寺 堺市設置案内板
案内板拡大写真
引接寺跡(近世期)
引接寺は、勅定山と称し、貞和3年(1347)に創建された由緒の古い寺院で時宗四条道場(京都金蓮寺)の末寺となっていました。
寺の縁起によれば、堺商人三宅十五郎が父親の病気の回復を住吉社に祈念し、夢告によって海より無量寿仏(阿弥陀仏)を得てこれを拝したところ病気が治ったため、伽藍七堂・坊舎四十余院を造立し俊澄(後の釈阿智演)という僧侶を導師として寺院を建立したと伝えられています。
また、創建当初は、住吉社領内、現在の宿院町西付近を中心に、広大な寺地を有しており、中世都市堺の南側は、引接寺とともに発展してきました。
その後移転し、江戸時代には、現在の少林寺小学校の敷地にあたる部分に「白蔵主の釣狐」で名高い少林寺に隣接して位置しています。
明治以降寺勢が衰え明治6年廃寺となりました。
【出典:堺市設置案内板】
引接寺 (堺市)
引接寺(いんじょうじ)は、大阪府堺市堺区にあった時宗四条派の中本寺である。山号は勅定山、「引摂寺」とも記す。語源は「来迎引接」の略。
歴史
貞和3年(1347年)の建立と伝える。堺における古株の豪商である三宅十五郎が父親の病気回復を住吉社に祈願したところ、夢告によって海より無量寿仏(阿弥陀如来の異称)をえて見事に願いが叶ったため、報恩のために七堂伽藍を建立したという。
当初の寺地は堺区宿院町西附近であった。のち現在の堺市立少林寺小学校の位置に移転している。
京都で威勢を誇った時宗四条派・四条道場金蓮寺の有力末寺であり、尾張国熱田円福寺、近江国木之本浄信寺、摂津国尼崎善通寺とともに、四条派の四箇本寺であった。当寺をへて金蓮寺の住持=四条上人浄阿になる者も少なくなかった。当時は「堺四条道場」ともよばれた。金蓮寺の末寺で金蓮寺と同じく「四条道場」とよばれたのは当寺だけである。
中世都市堺は北半分が摂津国堺北庄、南半分が和泉国堺南庄から成り立っていた。当寺は堺南庄に属し、堺北庄には同じく四条道場末の金光寺があった。妙国寺に隣接していた金光寺も廃絶している。
建立に際しては住吉社の社務職津守氏の支援があったと伝えられ、住吉社の別宮とされた開口神社にほど近いため、開口神社の神宮寺に準ずる立場にあった。現在も史料のいくつかは同社に遺されている。
明治維新になると廃仏毀釈の影響ですっかり寺勢も衰え、明治6年(1873年)に廃寺となった。当寺にあった松風社が開口神社境内社として還座・転用されている。寺宝などの大部分は堺区中之町東にある浄土宗西山禅林寺派正法寺が引き継いだが、1945年の大空襲ですべて失われている。同寺境内に移築された碑のみが残る。また、少林寺小学校の一角に案内板が建っている。
近世に設定された日本西方四十八願所の四十二番。
住所
・堺市堺区少林寺町東4丁1番1号
交通
・南海高野線・堺東駅より徒歩15分、または阪堺電気軌道・寺地町停留場より徒歩5分
関連項目
・堺公方 – 堺幕府が当寺に一時期置かれていたという
アクセス