01-02900 旭蓮社

旭蓮社きよくれんじや


旭蓮社ぎよくれんじや

寺地町東にあり
浄土宗中華もろこし廬山派ろざんはの一本寺ほんじ鎭西ちんぜい流儀りうぎなり
甘露山かんろさん大阿弥陀經寺だいあみだきようじと号す

本尊上品じやうぼん阿弥陀佛あみだぶつ

開山かいさん澄圓ちようゑん上人の作 みたけ丈六

祖師堂そしだう

澄圓ちようゑん上人の像を安置す

圓光ゑんくはう大師だいし旧蹟きうせき廿五かしよ

旧跡をこゝに移しける也
本堂の西にあり

玄恕げんじよ上人べう

當山十九世の寺職也
祖師堂の北にあり

佛還ぶつげん上人塚

蓮池の傍にあり

昆沙門堂びしやもんだう

長八寸
弘法大師の作

古梅こばい

池の傍にあり
玄恕上人の愛樹あいじゆ

蓮池れんち

本堂の前にあり
此池中にかはづ多くすめどもかつ鳴事なくことなし

舳松へのまつ神廟しんべう

當寺の鎭守也
神㓛皇后異國より帰朝の御時軍舩九艘の舳頭へさき向ふ所を九艘くそう小路といひ寺の北門前町をいふ
又九本の松につなぎしより九本松町あるひは舳松へのまつとも
後世こうせいこゝに社を営て九本松明神とあがめ奉る也

そも〱開山かいさん澄圓ちようゑん上人は何國いづくの人といふ事を知らず
世人せじん當國たうこく家原いゑばら文殊菩薩もんじゆぼさつ化現けげんなりと申ける
台宗たいしうに入奥㫖あふしきは
中頃諸宗しよしうわたゑき海藏院かいざうゐん虎関こくはん
つひ花園帝はなぞのてい文保ぶんほ元年四月大元國だいげんこくに入て六年のあひだかの國々くに〲巡歴じゆんれきして
のち廬山ろさん東林寺とうりんじいた優曇うどん禅師ぜんしゑつして西天佛さいてんぶつ圖澄とちよう三藏さんざう嫡傳てきでん惠遠ゑおん大師たいし念佛ねんぶつ三昧さんまい眞訣しんけつ面授めんじゆ佛像ぶつざう経疏きやうしよとう附託ふたく給ひ
かつ信印しんゐんためとて三藏さんざう將來しやうらい佛舎利ぶつしやり遠公をんこう所持しよぢ蓮華漏れんげろうならび衣鉢ゑはち廬山ろざん統継とうけい画史ぐはしとうたまはりぬ
五臺山ごだいさん攀登よぢのぼ文殊もんじゆ記別きべつかうむすべて二十七州を巡行じゆんぎやう叅究さんきう㓛滿こうみつ後醍醐帝ごだいごてい元享げんこう元年に帰朝きてう渡唐とたう求法ぐほうをもむき奏達そうたつし給へば叡感ゑいかんなゝめならず
本邦ほんほう廬山ろざんうつすべきこと勅許ちよくきよなし給ひ宸翰しんかん廬山ろざんがくたまはり正中元年泉州せんしう大鳥おほとりさかいはま旭蓮社きよくれんじや草創さう〱し侍る本朝ほんてう蓮社れんじや始祖しそ
光明帝くはうみやうてい延元ゑんげん二年に弐千六百貫の租税そぜいたま
康永かうゑい元年天下大に疫死ゑきし
みかど人民にんみんあはれみ給ひて澄圓ちようゑんみことのりくだし給へばすなはち圓頓ゑんとん菩薩戒ぼさつかいしゆ
たちまち疫病ゑきびやうやん民間みんかん喜悦きゑつまゆひら
其時圓頓ゑんとん乘戒じやうかい論師ろんし澄圓ちようゑん菩薩ぼさつ綸㫖りんしたま
其後南朝なんてう後村上帝ごむらかみてい宮中きうちう澄圓ちようゑんをめして蓮教れんげうかうぜしめ戒師かいしとなし圓頓ゑんとん菩薩戒ぼさつかい禀𣴎ひんじよう叡信ゑいしんなゝめならずして紫衣しゑ大阿弥陀經寺だいあみだきやうじ宸翰しんかんたまはる
而后しかふしてのち崇光帝しゆくはうてい貞和ぢやうわ元年浄土教じやうどけうを以て小乘部せうじやうぶいゝなせる編書へんしよをこなは
於是こゝにをいて松風論しようふうろんくはん述作じゆつさくして大に浄教頓大じやうけうとんたいむねあらは
開山かいさん德輝とくき日々ひゞあらたなりしかば門末もんまつ弘通くつういらかをならべ大伽藍だいがらん殿堂でんだう門蕪もんぶ三十八塔頭たつちう僧坊そうばう三十餘舎よしやに及べり
つひ鎭西流ちんぜいりう白旗しらはた正統しやうとう法孫はうそん授與じゆよ應安をうあん五年七月廿七日上人忽焉こつゑんとして見へず門子もんしその行方ゆきかたらず
いま其日そのひしるして寂日じやくにちとす
近世きんせ玄恕げんじよ上人寺内じないに一たて永春院ゑいしゆんゐんと号し常行じやうぎやう念佛ねんぶつをこたらず

潮風呂しほふろ

旭蓮社きよくれんじやりやう也大町の西にあり
中頃當所八万貫はちまんぐはん妙德めうとくといふものこゝを持來もちきたりしが昆沙門天びしやもんてんを信じ霊夢れいむによつて當寺に寄附きふ
相傳あいつたふむかし行基ぎようぎ菩薩ぼさつ井をほつて手づから藥師やくし石像せきざうきざみてこゝに安置す
諸人これをよくする時は衆病しゆびやうのぞく也
故にとなくせんとなくこの浴室に入る事今にたへ

潮水井しほのい

浴室の前にあり
海辺かいへんより六七町へだつれども昼夜ちうや滿干みちひあり
攝州せつしう有馬ありま温泉をんせんと一さうなりといふ

守覺法親王集云和泉國新家といふ所にてしほゆあみしけるに源中納言雅頼のもとよりかくなん
 かきりあれは身こそ數にもいらさらめ心の行をいとはさらなん 雅頼
  かへし
 ことのはのたよりの風にちる時はかよふ心も色にみへける   守覺法親王
  しほゆあみはてゝ都へ帰るとてよめる
 日數へしひなのすまひを思ひ出はこひしかへき旅の空かな   仝
むかし此辺は新家しんけ村也後世新在家しんざいけ町とす
今四五町南にあり
此塩風呂につい足利あしかゞ將軍家しやうぐんけ巳來いらい浴室よくしつ條目でうもくたまは諸役しよやく免除めんじよなり
一歳ひとゝせ太閤たいかう秀吉ひでよし公こゝによくし給ひて疾病しつびやう不日に平愈へいゆし給ふ
於是こゝにおいて刺史しし石田隠岐をきの政成まさなりに仰てせい状をたまふ其文に曰
當時境内寄宿塩風呂諸役之事
免除不可有違背
 文禄二年後九月十七日   秀吉御判

 

今に見る旭蓮社


旭蓮社南門
 

旭蓮社山内
 

本堂
 

本堂山号額「旭蓮社」
 


毘沙門堂
 

宝篋印塔
 

堺市設置案内板

大阿彌陀経寺(旭蓮社)

 甘露山大阿彌陀経寺は、元徳2年(1330)澄円上人の開創で後村上天皇の勅願所であり旭蓮社ともいう。
 澄円上人は、後醍醐天皇正中2年(1325)入元中国廬山の東林禅寺に於て、優曇普度禅師について、廬山慧遠大師の白蓮社の念仏の流れを汲み、留学すること5年、元徳元年(1329)帰朝、廬山の白蓮社に模して、堺の浜に精舎を建てこれを旭蓮社と称した。国家安全・宝祚延長を祈らしめ、功を以て菩薩号を賜わり澄円菩薩といった。当寺は慧遠派念仏本山として栄えたが第23世徹誉の時、知恩院の支配に属し、本尊阿弥陀如来像をまつる。明治維新以後当寺は堺県裁判所となったが、のち払い下げを請い堂宇を修繕し旧観に復す。第二次世界大戦の為、毘沙門堂を除き諸堂焼失したが現住これが復興を計り、本堂・山門・庫裡を再建して現在に至る。また第14世燈誉に勅点和歌集があり、第24世成誉蓮阿は「泉州堺旭蓮社縁起」上中下3巻を作った。第37世願誉知海は浄土宗総本山知恩院第80代住職となる。

堺市
【出典:堺市設置大阿彌陀経寺(旭蓮社)案内板】

 

今の旭蓮社 舳松神廟


開口神社境内神社 舳松神社は、旭蓮社の鎮守として鎮座していた舳松神廟。

舳松神社の舊址

寺の北門前は謂はゆる九舳小路にして、九本松町或は舳松とも呼び、門内は、村社 舳松神社のありし所なり。社は一に九本松とも呼び、勸請の年月等は詳ならざれども、社名は地名に因みしものなるべし。境内は壹百餘坪を有し七社神社及び、高津神社といへる末社を存し、七社神社はもと寺の鎮守にして、高津神社は傳へて大仙陵の遥拝殿といひしが、社は明治四十年五月二十一日開口神社境内末社に合祀さられて今はなし。

【管理人注釈】文頭の「寺」は、大阿彌陀経寺(旭蓮社)のことです。
【出典:大阪府全志 巻之五】

 

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