01-00100 和泉國號始 茅渟之訳 堺津


神㓛しんくう皇后くはうぐうかん御退治おんたいぢ有て堺浦さかいのうら歸朝きてうし給ふ
鷁舟みふね着岸ちやくがんしける所舳松へのまつといふ
山海経さんかいきやう云 崑崙山こんろんさん沙棠木さどうぼくあり
くらへばおぼれず
又これにてふねつくるときは難風なんふうくつかへらず海底かいていしづまずとぞ聞えし

 

和泉いづみの國號こくがうのはじまり

和泉國いづみのくにもと河内國かはちのくに茅渟ちぬの海畔うみのほとり郡内ぐんないなり
神㓛皇后じんぐうくはうぐう新羅しらぎせいたまとし地中ちちう波浪はらうこゑあつて須更しゆゆにして飛泉ひせん湧出わきいづこと丈餘也
其ながれ長くしてあぢはひ甘露かんろごとかるがゆへに其地を和泉いづみとなづく
韓國からくにをことごとく退治たいぢ給ふて皇后くはうぐう御凱陣ごがいぢんあつて紀伊國きいのくにに至り御舩みふ子り給ひ此清水しみづ賞嘆しやうたんし給ふ
いま和泉郡いづみのこほり國府こふ清水しみづこれ也
ときの人みないはく德澤とくたく上にあきらかにして天下清平せいへいなれば霊泉れいせん湧出ゆしゆつするとぞ申ける
續日本紀曰元正げんしやう天皇霊亀れいき二年四月河内國かはちのくに大鳥おほとり和泉いづみ日根ひねぐんわけあらため和泉國いづみのくにといふ
延喜式曰本國ほんこく管郡くはんぐん大鳥おほとり和泉いづみ日根ひねといふ
和名類聚鈔曰和泉郡いづみのこほりと分て泉南郡せんなんこほりおくいま四郡しぐんなる
その彊域きやういくひがし河州かしうさかいに至り西にし海濵かいひんに至りみなみ紀州きしうさかいに至りきた攝州せつしうさかいに至て南北十二里東西五里ばかり

 

茅渟ちぬわけ

茅渟ちぬ和泉國いづみのくに惣名そうみやうなり
日本紀曰神武じんむ天皇東征とうせいしたまふ膽駒山いこまやまこえ中洲ちうしういらんとし給ふに長髓彦ながすねひこふせたゝか
官軍くはんぐんあらずしてさらうみしたがふ舟行しうぎやうし給ふみんなみの方山城やまき水門みなとに至る
皇弟くはうてい五瀬命いつせのみこと矢瘡やきずいたみはなはだなりみづついあら
血沼ちぬこゝよつおこるなり茅渟ちぬの名陸地りくぢにては和泉國にかぎるなり
茅渟ちぬ屯倉みつきの事同書安閑あんかん天皇のまきに見へたり
茅渟海ちぬのうみ茅渟浦ちぬのうらなとの海に至ては攝泉せつせん两國にわたれり万葉まんよう及び八雲御抄やくもみせう等多くは攝津國のに出たり
和歌わかによつてさとすべし
万葉
ちぬの海の濵邊の小松袮ふめて我こひわたる人の子ゆへに   人磨
名寄
ちぬの海の濵辺の小松汐こしてなみの音にそ秋風そふく    讀人志らす

 

堺津さかいのつ

堺津さかいのつ攝河泉せつかせんしうさかひ
いにしへ鹽穴郷しあなのがう土師郷はじのがう下條かでう村邑そんゆうあるところなり
明德めいとく年中には山氏清うぢきよここにしろきづき泉府せんふとなづく
氏清うぢきよ敗滅はいめつのち周防國すはうのくに大内おほち義弘よしひろ守護職しゆごしよくかね應永六年義弘よしひろ戦死せんし
それよりほそ滿元みつもと守護しゆご享禄かうろく年中家臣かしん三好みよし長慶ちやうけい旗下きか十河そがう存保まさやすを以てまもらし南海なんかい四國しこく要衝ようしようとす
永禄ゑいろくはじめ根來寺こんらいじ僧徒そうと國中こくちう劫略けうりやく
天正五年織田おだ信長のぶなが陣営ぢんゑい南莊みなみのしやうたて松井まつい友閑ゆうかんをして國務こくむつかさとらしむ
同十三年豊臣とよとみ太閤たいかう秀吉公ひでよしこう根來寺ねごろでらうつその巣穴さうけつやき國害こくがいはらふゑい北莊きたのしやううつ小西こにし攝津守せつつのかみ行長ゆきながを以て泉州せんしうこく政事せいじつかさどらしむこれを政所まんどころがう
今に至刺史しし参勤さんきんありて千歳せんさい不易ふゑき