神㓛皇后三韓を御退治有て堺浦へ歸朝し給ふ
鷁舟の着岸しける所舳松といふ
山海経云 崑崙山に沙棠木あり
其實を喰へば溺れず
又これにて舩を作るときは難風に覆らず海底に沈まずとぞ聞えし
和泉國號始
和泉國は舊河内國茅渟海畔の郡内なり
神㓛皇后新羅を征し給ふ年地中に波浪の聲あつて須更にして飛泉湧出る事丈餘也
其ながれ長くして味甘露の如し故に其地を和泉となづく
韓國をことごとく退治給ふて皇后御凱陣あつて紀伊國に至り御舩を下り給ひ此清水を賞嘆し給ふ
今和泉郡國府の清水これ也
時の人咸曰德澤上に昭にして天下清平なれば霊泉湧出するとぞ申ける
續日本紀曰元正天皇霊亀二年四月河内國大鳥和泉日根三郡を割て改て和泉國といふ
延喜式曰本國管郡三ツ大鳥和泉日根といふ
和名類聚鈔曰和泉郡と分て泉南郡置今四郡と成
其彊域は東河州の界に至り西海濵に至り南紀州界に至り北は攝州界に至ツて南北十二里東西五里許也
神㓛皇后新羅を征し給ふ年地中に波浪の聲あつて須更にして飛泉湧出る事丈餘也
其ながれ長くして味甘露の如し故に其地を和泉となづく
韓國をことごとく退治給ふて皇后御凱陣あつて紀伊國に至り御舩を下り給ひ此清水を賞嘆し給ふ
今和泉郡國府の清水これ也
時の人咸曰德澤上に昭にして天下清平なれば霊泉湧出するとぞ申ける
續日本紀曰元正天皇霊亀二年四月河内國大鳥和泉日根三郡を割て改て和泉國といふ
延喜式曰本國管郡三ツ大鳥和泉日根といふ
和名類聚鈔曰和泉郡と分て泉南郡置今四郡と成
其彊域は東河州の界に至り西海濵に至り南紀州界に至り北は攝州界に至ツて南北十二里東西五里許也
茅渟之訳
茅渟は和泉國の惣名なり
日本紀曰神武天皇東征したまふ日膽駒山を踰て中洲へ入んとし給ふに長髓彦禦き戦ふ
官軍利あらずして更に海に循て舟行し給ふ南の方山城の水門に至る
皇弟五瀬命矢瘡痛甚なり水に就て血を洗ふ
血沼の名此に由て起るなり茅渟の名陸地にては和泉國に限なり
茅渟山屯倉の事同書安閑天皇の巻に見へたり
茅渟海茅渟浦なとの海に至ツては攝泉两國に亘れり万葉及び八雲御抄等多くは攝津國の部に出たり
和歌によつて暁すべし
万葉
ちぬの海の濵邊の小松袮ふめて我こひわたる人の子ゆへに 人磨
名寄
ちぬの海の濵辺の小松汐こしてなみの音にそ秋風そふく 讀人志らす
日本紀曰神武天皇東征したまふ日膽駒山を踰て中洲へ入んとし給ふに長髓彦禦き戦ふ
官軍利あらずして更に海に循て舟行し給ふ南の方山城の水門に至る
皇弟五瀬命矢瘡痛甚なり水に就て血を洗ふ
血沼の名此に由て起るなり茅渟の名陸地にては和泉國に限なり
茅渟山屯倉の事同書安閑天皇の巻に見へたり
茅渟海茅渟浦なとの海に至ツては攝泉两國に亘れり万葉及び八雲御抄等多くは攝津國の部に出たり
和歌によつて暁すべし
万葉
ちぬの海の濵邊の小松袮ふめて我こひわたる人の子ゆへに 人磨
名寄
ちぬの海の濵辺の小松汐こしてなみの音にそ秋風そふく 讀人志らす
堺津
堺津は攝河泉三州堺也
古は鹽穴郷土師郷の下條の村邑ある所なり
明德年中には山名氏清ここに城を築て泉府となづく
氏清敗滅の後周防國大内義弘守護職を兼應永六年義弘戦死す
それより細川滿元守護し享禄年中家臣三好長慶の旗下十河存保を以て守らし南海四國の要衝とす
永禄の初根來寺の僧徒國中に劫略す
天正五年織田信長陣営を南莊に建て松井友閑をして國務を司とらしむ
同十三年豊臣太閤秀吉公根來寺を討て其巣穴を燬國害を攘て營を北莊に徙し小西攝津守行長を以て泉州一國の政事を司どらしむこれを政所と號す
今に至ツて刺史参勤ありて千歳不易と成ル
古は鹽穴郷土師郷の下條の村邑ある所なり
明德年中には山名氏清ここに城を築て泉府となづく
氏清敗滅の後周防國大内義弘守護職を兼應永六年義弘戦死す
それより細川滿元守護し享禄年中家臣三好長慶の旗下十河存保を以て守らし南海四國の要衝とす
永禄の初根來寺の僧徒國中に劫略す
天正五年織田信長陣営を南莊に建て松井友閑をして國務を司とらしむ
同十三年豊臣太閤秀吉公根來寺を討て其巣穴を燬國害を攘て營を北莊に徙し小西攝津守行長を以て泉州一國の政事を司どらしむこれを政所と號す
今に至ツて刺史参勤ありて千歳不易と成ル