01-00403 小西如清

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

小西こにし如清じよせい

彌十郎
累世るいせさかいの津にすん藥種やくしゆあきなひ富有ふゆうをくうるほすなり
天正年中秀吉ひでよしばん州にあつ蓺州けいしう毛利もうり輝元てるもと對陣たいぢん
播蓺ばんげい中間ちうげん宇喜多うきた直家なおいゑあり 備前びぜん國守こくしゆ
秀吉公ひでよしこう小西こにし十郎を以て良媒りやうばいとし給ふ
小西こにしたゞち直家なおいゑゆき
いま秀吉織田おだめいうけ播州ばんしうにあり
御邉ごへん信長公のぶながこうへ一とも毛利もうり退治たいぢし給はゝ
美作みまさか一國いつこく加恩かをんに申べきと張儀ちやうぎ辨舌べんぜつふるひしかは直家なおいゑ即座そくざ同心どうしん
秀吉公其こうしやうじてりやう地一千せきたま

今に見る小西 如清

小西 如清

小西 如清(こにし じょせい、生没年不詳)は、安土桃山時代の商人。豪商小西隆佐の息子で、豊臣氏に家臣として仕えた父の後を継いだ。
 

略歴

小西家の家業は薬屋で、小西隆佐の長男として生まれる。

一部の文書では父の隆佐と同視されるが別人で、系図上、行長を如清の子とする説もあるが、江戸時代の系図作家が長男であることの辻褄を合わせたものと思われ、現在では有力な説ではない。養子としたという事実は確認されていないが、宣教師の残した文書の記述に混乱があり、古くから養子説もあった。

現在の定説では、如清は、大名・小西行長、小西行景の実の兄に当たり、小西主殿介は異母兄弟。

元亀4年(1573年)に将軍・足利義昭が織田信長によって追放された京都の動乱の際には、父と共にルイス・フロイスら宣教師の警固に加わった。天正7年(1579年)、洗礼を受けてキリシタンとなった。洗礼名はベントとされる。熱心な信者で、バテレン追放令に際しては、1588年、イエズス会のアクアヴィーヴァ総長に苦境を伝える手紙を出した信徒11名の連著の中に加わった。

文禄3年(1594年)、隆佐の死後、豊臣秀吉より生前に父が歴任していた堺代官に任じられ、石田三成の兄・正澄と連携して職を果たした。

関ヶ原の戦いの後、小西行長の妻・菊姫(霊名ジュスタ)と共に捕えられ、行長の子息(氏名不詳)の裁判のために京都に送られたとする記録があるが、その最期は定かでない。

【出典:Wikipedia 小西 如清

 

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)

(一四〇)小西如清
 【堺の藥種商】小西如清は彌十郞と稱し、累世堺に住して藥種商を營んだ。(堺鑑下)宿屋町大道の北寄東側に邸宅があつたと傳へられて居る。彌十郞富有にして才覺辯舌あり、浮田直家と親交があつた。天正中豐臣秀吉播磨にあつて毛利氏と對陣に際し、直家の向背は戰局に影響するところ少なからざるを以て、秀吉の召に應じて盟約を結び、功によつて領地千石を與へられた。後薙髮して如清と號し、(堺鑑下)文祿二年病歿した。(日本西教史上)
 【基督教徒としての如清】日本西教史によると、如清は基督教信者となり、ドム・ジョアシーム・ルーイと稱した。秀吉曾て人と爲りの謹嚴篤實なるを知り、教徒たるに關らず之を重用した。而も老齡重任に堪えず、遂に那古耶に於て病に罹つたが、京都在留耶蘇教社の長官オルガンタン師に生涯の懺悔をなし、末期の法式を受け、病危篤に瀕するに及び、死後神佛信者の儀式を以て埋葬せられんことを恐れ、堺に歸つて療養せんことを希ひ、京都に移り、病室に天主の禮拜所を設け、十字形を乞ふて之を捧げ、恭しく之に接吻し、耶蘇及び聖母マリヤの聖名を唱へ、從容として瞑目した。
 【歿後の施與】生前の希望により、夜中竊に埋葬せられ、又遺言して京都の基督教寺院建築の爲めに、金二千デュカーを寄附し、尚基督教の篤信者及び其教を奉ぜんとする病者五十人を收容する爲めに、堺の市街に病院一棟を建設したと見えてゐる。(日本西教史上)

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史