01-00409 喜多七太夫長能

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

喜多きた七太夫長能をさよし

幼名八之丞
當津いちの町中はまさん
北莊きたのしやうさくらの町に住居ぢうきよちゝ願慶ぐはんけいといふ醫師くづしにして長能をさながが兄を萬之丞まんのぜうといふ
七太夫幼年ようねんより當津のかん太夫といふ能師のうし弟子でしと成舞曲ぶきよく妙手めうしゆを得たり
それより此りう天下にひろまりて孫弟そんてい今に多し
七太夫豊臣とよとみ秀頼公ひでよりこう召仕めしつかはれつひ大坂一らん討死うちじに

今に見る喜多七太夫長能

喜多七太夫長能

喜多 七太夫長能(きた しちだゆう ちょうのう / おさよし、天正14年(1586年) – 承応2年1月7日(1653年2月4日))とは、能楽シテ方喜多流の流祖。当時は北七太夫と名乗り、二代十太夫当能より「喜多」を名乗ったが、多くは初代も喜多七太夫と記される。後世、古七大夫(こしちたゆう)とも呼ばれた。別名、六平太。法名は願慶。

堺の目医者・内堀某の子とされるが、はっきりしない。7歳で能を器用に舞ったことから「七ツ太夫」と呼ばれた。慶長元年(1596年)、10歳で金剛座の一員として薪猿楽に出演したことが記録に残り、当時から人気の役者であったらしい。金剛太夫弥一の養子に迎えられ、金剛三郎と名乗り金剛座の嗣子となる。慶長10年(1605年)に弥一が没すると後継の大夫となり、またその直後に金春大夫安照の娘を娶るが、岳父・安照は三郎の才能を危険視し、芸の指導を行わなかったと伝えられる。徳川家康に冷遇されたこともあって大坂の陣では豊臣方に加わり、そのため浪人する。金剛大夫は弥一の実子・右京勝吉が継いだ。浪人中は京都で遊女に舞を教えるなど、能界を一時退いていた。

元和5年(1619年)、徳川秀忠の上洛に際し金剛七大夫を名乗って復帰、以後その愛顧を受けて芸界の首位を獲得する。当時各座の大夫格がいずれも若年であったことも幸いしたと考えられる。特に大御所となった後は秀忠の七大夫への寵愛は著しく、これに追随する形で黒田長政、伊達政宗、藤堂高虎といった大名たちも七大夫を賞翫した。寛永4年(1627年)頃からは北七大夫を称し、自然と金剛座から独立した喜多座というべき一座を形成する。

この七大夫の類を見ない勢威を嫉視するものも多く、寛永11年(1634年)、「関寺小町」の上演をきっかけに閉門を命じられたのは、そうした同輩の策謀であったと考えられている。この際には伊達政宗が将軍・徳川家光を饗応して赦免させている。以後も芸界の第一人者として活動するが、慶安2年(1649年)に勧進能を行うため上洛の最中、伊勢桑名で馬方を殺害したことで領主の松平定綱との間に悶着を起こし、一時逼塞する。以後は四男で後継者である十大夫正能の成長もあり演能機会は減り、慶安4年(1651年)に徳川家綱の将軍宣下祝賀能に出演した直後に引退。承応2年(1653年)1月に没。

一代にして喜多流を創立し、記録に残っているだけでも1,000番を超える能を舞った七大夫は、秀吉時代から江戸初期を代表する能役者であり、以後彼に並ぶ業績を残した能役者はいないと評価されている。

【出典:Wikipedia 喜多七太夫長能

 

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)

(二九六)喜多七太夫
 【喜多流謠曲の始祖】喜多七太夫は喜多流謠曲の始祖で、名は長能、始め八之丞と稱した。【市之町中濱に生る】堺市之町中濱に生れ、櫻之町に住した。家は扇屋であつた。或はいふ父は醫を業とし願慶と稱したと。兄萬之丞は豐臣秀賴に仕へ大阪陣に戰死し、二男は父業を繼いで陽春と號した。七歳の時能師勘太夫の弟子となり舞踊の妙を得た。(堺鑑下、攝陽群談卷第十、鹽尻卷之六十)【金剛新六の門に入る】後金剛新六の門に入り、技藝益々上達した。七太夫大阪夏ノ陣に、【大坂に籠城す】今春大太と共に籠城し、五月七日眞田幸村に從ひ、大太夫は騎馬、七太夫は徒步で德川陣に亂入し、武名を擧げたが、落城後、大和に逃れ、後藝道を以て免され、【幕府に仕ふ】幕府に召抱へられ、命を以て其師金剛の家に居つた。(猿樂傳記上、能樂全史)當時金剛の主右京猶ほ幼少であつたが、後見金剛座附の脇師高安太郞右衞門、七太夫の名聲を忌み、之を斥けんとして、反つて幕府の咎を被つた。そこで七太夫は別に一派を樹てることを許され、觀世、寶生、金剛、今春の四座に次いで待遇せられ、扶持方三十六人、配當米二百俵を下賜せられた。七太夫卽ち金剛流に自家獨得の型を立てた。【喜多流の公許】喜多流として一座を許されたのは元和四年で、承應二年正月七日卒去した。幕府では四座の家元を太夫と云ひ、喜多のみは七太夫若しくは十太夫と藝名を呼ばしめた。【子孫】以來現代六平太に至るまで連綿として子孫相繼承して居る。(能樂全史)

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史