堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
沅南江
諱は宗沅字は南江
濃州の人也
洛陽相國寺雲溪和尚の上足にして
永享四年堺南ノ莊葦原の海濱に草庵を結び
自無菴と號す
或時一休和尚に謁して
狗子無佛性の話によつて投機の頌を作る
妾是多情郎薄情 長門春雨釀愁成
銀屏宛轉還飛散 乍有作無啼鳥聲
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一休和尚これを聞て嘆美す
寛正四年夏なつ 寂じやく す年七十七
濃州の人也
洛陽相國寺雲溪和尚の上足にして
永享四年堺南ノ莊葦原の海濱に草庵を結び
自無菴と號す
或時一休和尚に謁して
狗子無佛性の話によつて投機の頌を作る
妾是多情郎薄情 長門春雨釀愁成
銀屏宛轉還飛散 乍有作無啼鳥聲
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一休和尚これを聞て嘆美す
寛正四年夏
今に見る沅南江
堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第三編 名蹟誌
第三章 史蹟名勝
第四節 名所
(一)芦原濱
【所在】堺の沿岸で眺望に富んだ芦原濱は南旅籠町及び南半町の西四丁、同五丁に當る附近であつた。【沅南江隱棲舊址】永享の頃沅南江此地に菴を結んで悠々隱者生活をしたと傳へられてゐるが(堺鑑)其舊址は明かでない。然し、南江の號鷗巢は當時此附近に遊鷗の多かつた事から思ひ付かれたものであらう。其後海岸の埋沒と共に芦原の區域は擴がり、風景愈々蕭條を加へ、德川時代の期にも猶ほ風光絶佳の地として喧傳せられた。【秀忠、家光駕を抂ぐ】元和年間、將軍秀忠、家光相次いで堺に來つた際にも此濱に駕を抂げてゐる。(兩上樣堺御役所御成覺書)此後一部分は開墾せられて町家となり、【元祿二年の狀態】元祿二年の堺大繪圖には芦原町、芦原小路筋、芦原中筋、芦原大濱筋の名を記してゐる。【大和川附替後の變遷】大和川附替後流出土砂の爲めに次第に遠淺となり、内川の開鑿後更らに急變し、遂に全く昔日の風景を失ふに至つた。【現狀】斯くして今は唯南旅籠町及び南半町の西四丁、同五丁に芦原の俗稱を存し、漁業者の住居地となり、内川に近く開口神社の御旅所が設けられてゐる。