堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
松井有閑法印
松井有閑法印は信長の刺史として堺ノ津にあり
元亀元年四月信長濃州より上洛あつて
京都堺ノ津に於て名物の茶噐を上覧あるべしとて
此法印と丹羽五郎左衞門ノ尉長秀と两人に仰付られこれを奉行す信長記
又髙野山へ武士三千人遣されける時も此法印に其魁將を命ぜられき
元亀元年四月信長濃州より上洛あつて
京都堺ノ津に於て名物の茶噐を上覧あるべしとて
此法印と丹羽五郎左衞門ノ尉長秀と两人に仰付られこれを奉行す信長記
又髙野山へ武士三千人遣されける時も此法印に其魁將を命ぜられき
今に見る松井有閑法印
堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
(一六)松井友閑
松井友閑は織田信長の右筆で、後宮内卿法印に任ぜられた。(信長記)堺代官として在勤の際、恰も元龜元年四月信長岐阜から上洛して、【茶器上覽の奉行】京都及び堺に於ける茶器の珍器を覽んとて、命を友閑及び丹羽長秀に傳へ、之を奉行させた。(堺鑑下、全堺詳志卷之下)又信長高野山に派兵の際には、部將となつて活躍した。天正五年八月、【友閑の戰歴】松永久秀謀反の際には信長友閑に之を諭せしめ、同六年十月荒木村重擧兵せんとするや、亦信長は友閑等をして懷柔せしめんとした。次いで同八年閏三月、信長本願寺と和睦の際、目付として本願寺の誓紙を受領し、同年八月には佐久間信盛父子に譴責狀を傳達した。十年五月家康安土より京都に出遊し、やがて堺に下つた際には、友閑に招かれ茶會に列してゐる。