01-00419 岐翁

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

岐翁ぎをう

岐翁ぎをうは一休和尚の弟子也
ある時師名しめいそむ擯出ひんしゆつせられ當津の市ノ町六けんすじに住で集雲庵しううんあんと号す
其後一居士こじ宗祇そうぎ法師とをたのん勘氣かんきゆるされける
一休しからばわが太刀持たちもちにすべしと也
今に一休の肖像せうざうかたはら太刀持たちもちこの岐翁ぎをう
もとも波瀾はらんすごかさず禅心ぜんしん鉃石てつせき名僧めいそう
其後南宗寺なんしうじきようつし今に集雲庵しううんあん開基かいきとする也

 

今に見る岐翁

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)

(六四)岐翁紹禎
 岐翁紹禎は集雲庵の開基である。【一休の門弟】一休宗純に參禪したが、(野史には一休の子、名は紹禎といひ、七十二歳で歿したとある)一休に背いて擯出せられ、堺市之町六間筋に庵地を求め、集雲菴と稱したが、一路居士と宗祇との周旋で歸門を免され、【南坊】師命によつて庵名を南坊と改めた。以後集雲菴とも南坊とも稱へることゝなつた。(堺鑑下、類聚名物考卷五十一)明應七年、【公卿の參禪】烏丸光康は少納言菅原利長と共に堺に來つて岐翁に參禪した。岐翁は亦紹鷗と親交があり、茶話を樂んで居た。(南坊錄一)或はいふ一休岐翁を免したとき、然らば吾太刀を持つべしと云はれ、一休肖像の傍に太刀を持つて居る圖のあるは此岐翁であると云はれ、亦其資性濶達力量があつたと逸聞せられてゐる。(堺鑑下、類聚名物考卷五十一)

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史