堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
松山新助
松山新助は堺ノ津の人也
永禄年中三好家に在て爪牙の臣也太閤記
其始は本願寺の番士にてありしか天性優に艶しく物事直成に萬の裁判諦なり
其上小鼓尺八早歌の藝態にも達し髙家貴人へ立入置酒して興を催す
漸もすれば對陣にも及ぶべきを新助が辨舌にて和を布ければ治りし事も多かりき
永禄年中三好家に在て爪牙の臣也太閤記
其始は本願寺の番士にてありしか天性優に艶しく物事直成に萬の裁判諦なり
其上小鼓尺八早歌の藝態にも達し髙家貴人へ立入置酒して興を催す
漸もすれば對陣にも及ぶべきを新助が辨舌にて和を布ければ治りし事も多かりき
今に見る松山新助
堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
(一五)松山新助
松山新助は堺の人、始め本願寺の番士であつたが、永祿中三好家に仕官した。【諸藝練達】資性優雅辯舌爽かに、小皷、尺八、早歌等の藝能をもよくしたので貴紳に出入し酒筵の場所には常に列席して座興を添ふるを例とした。斯くして新助の名は敵味方の間に等しく喧傳せられ、【堺の名物男】堺の名物男としてもてはやされた。(堺鑑下、全堺詳志卷之下)