01-00425 髙三隆達

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

髙三たかさぶ隆達りうたつ

髙三たかさぶ隆達りうたつもと日蓮宗にちれんしうそう
當津顕本寺けんほんじぢう
ゆへあつて還俗げんぞく髙三たかさぶうぢしゑにて藥種やくしゆあきな
とし小歌節こうたぶしを一りう謳出うたひいだしけり
世人よのひと隆達流りうたつりうとて其頃そのころおほひうた

 

今に見る髙三隆達

隆達

隆達(りゅうたつ、大永7年(1527年) – 慶長16年11月25日(1611年12月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日蓮宗の僧。小歌隆達節の創始者。号は高三坊・自在庵。高三隆達(たかさぶりゅうたつ)。

略歴

12世紀の末に中国(宋)から筑前国博多に渡来した劉清徳の子孫と伝えられる。その後和泉国堺に移り薬種問屋を営み高三(たかさぶ)を姓とした。堺の日蓮宗顕本寺に庵室を造立して隠居所とした高三隆喜を父とする。隆達は幼くして顕本寺で出家し、父の庵室を引き継いで高三坊・自在庵と号した。連歌・声曲・書画などに秀で、当時流行していた小歌を集め、自ら作詞・作曲を行い独特な声調の隆達節を大成した。1590年(天正18年)兄の隆徳が没し、嗣子の道徳が幼かったことから、還俗して道徳の後見人となり家業の薬種業を後見した。書でも一家を成して堺流と称され、豊臣秀吉に召しだされたと伝えられている。

【出典:Wikipedia 隆達

 

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)

(一五二)高三隆達
 【顯本寺高三坊の始祖】隆達俗姓は高氏、堺顯本寺の子坊、高三坊の第一祖で自庵と稱した。【家系】祖先は漢人劉氏、(高三過去帳)來朝歸化して筑前博多に居住し、貞和の頃、高三三郞兵衞道玄堺に移住し、(高三家系圖)錢屋町に居り、(錢屋町は後の兩替町で、宿屋町の山之口に當る)藥種交易の業を營んだが、高三三郞兵衞と三の字重複しては呼び難きにより、高を改めて高三を以て氏とした。十數代其業を傳へ、天正の頃に至り、高三三郞右衞門隆喜に至り菩提所なる顯本寺内に一宇を營み、田畠六石の所得を以て隱栖し、自家の姓に因んで高三坊と稱し、末子隆達を以て其住職とした。【本家に復歸】然るに本家の兄隆德病死し、子道德遺跡を繼いだが、若年であつたので、隆達後見をすることゝなり、坊を甥の寺住坊日根に讓り、還俗して本家高三家に復歸した。隆達一流の小謠を謳ひ出し、世俗之を隆達節と稱して大に世に流行した。又堺流の書道を能くした。【秀吉に召さる】豐臣秀吉大阪在城の際、堺津に命じて一藝に秀でたるものを召したが、隆達も書道を以て撰に預かり、朱印六石を與へられたが辭して受けず、是を顯本寺に納むることゝした。爾來隆達は屢々秀吉に召されたこともあつた。(高三過去帳)【隆達節】隆達若冠から日蓮宗を信じ、禪機にも觸れ、特に天成の美音の上に、僧侶として聲明を學び、諷誦を習ひ、加ふるに音樂に對しては寔に天才で、各種の音曲を折衷調和して、一流の小唄を謠ひ出したのである。(小歌初祖高三隆達誌)其小唄は足利時代の閑吟集の影響を受けたところが多く、卽ち足利から德川への連鎖をなすものともいふベきもので、前を承けて後を開くの跡が見える。(歌舞音曲考説)慶長十六年十一月二十五日享年八十五歳を以て歿し(高三過去帳)法號を自在院隆達と稱した。(墓表、高三過去帳)堺鑑、聲曲類纂、類聚名物考、嬉遊笑覽等に、隆達は元日蓮宗の僧侶で、顯本寺の寺内に住したが、故あつて俗人となり、高三氏の家に往いて藥種を商ひ、後小歌の一節を歌ひ出したよしを記して居るのは、多少事實を誤り傳へたものであらう。

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史

 


日蓮宗 顕本寺に建てられた高三隆達顕彰碑「隆達碑」
大阪府堺市堺区宿院町東4丁1−30