堺人物
當津古來名譽の人物を撰んでこゝに載す
聟入一休
聟入一休
狂哥
一休の聟入萬事無一物
志ばしあふぎの繪そらこと也
衆雲
聟入一休といふは和尚住吉牀菜菴に住給ふ時當津甲斐ノ町中濵扇屋甚右衞門といふ者の所へ時々來入し給ふ
甚右衞門が家貧にして萬乏しく見へければこれを憐給ひ扇の地紙を多く取よせ烏の繪を書又は銀臺の画なとを書給ふ
世人これを賞翫し買者市をなしければ暫時に德ついて大福長者と成にけり
俗諺に一休和尚は扇屋が許へ入聟し給ふと其頃興じけると也
あるものこれを見て狂歌をよみける
一休が黒ころもきて聟入は扇にかいた烏なるらん
今に見る一休宗純
一休宗純
紙本淡彩一休和尚像(重文)
伝・墨渓筆『一休宗純像』(奈良国立博物館所蔵)
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。
生涯
出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。母親の出自は不明だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存する。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
6歳で京都の安国寺[注 1]の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となった。
応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしており[3]、謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が止めに入った。
応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。
文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会う。
文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできないが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行う。
人柄
以下のような逸話が伝わっている。
・印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
・男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
・木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。
・親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。
・正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも伺える。
このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされる)。
著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。東山文化を代表する人物でもある。また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。
一休宗純が遺した言葉
・門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
・釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな
・秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
・女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
・世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり
・南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
・えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり(本願寺で行われた開祖親鸞の二百回遠忌に、他宗の僧侶としてはただ一人参拝し、山門の扉に貼り付けて帰った紙に書かれていた)
なおアントニオ猪木らによって「一休の言葉」として流布されていた「この道を行けばどうなるものか…」に始まる言葉は実際には一休の言葉ではなく文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」という詩であったと見られる。
同じく、一休の遺文として「心配するな、なんとかなる」というものがあったという話も広く知られているが、原典は不明であり、一休に関する事象と断言できない。ある伝記作家が創作したという説もある。
一休宗純に関する研究書・評伝
一休:乱世に生きた禅者(市川白弦著 東京:日本放送出版協会、1970年12月(NHKブックス 132))
一休:風狂の精神(西田正好著 東京:講談社現代新書、1977年5月
一休:「狂雲集」の世界(柳田聖山著 京都:人文書院、1980年8月)
一休(水上勉著 東京:中央公論社(中公文庫)、改版1997年5月)
一休:その破戒と風狂(栗田勇著 東京:祥伝社、2005年11月) ISBN 4396612567
一休:「狂雲集」訳注(柳田聖山ほか訳著 東京:講談社〈禅入門〉7、新版、1994年5月)
初版は〈日本の禅語録〉12、1978年、柳田訳で中公クラシックスでも2001年に刊行。
一休和尚全集(東京:春秋社全5巻、1997年 – 2003年)
一休和尚大全(石井恭二/訓読・現代文訳・解読 東京:河出書房新社上下巻、2008年)
書と禅(大森曹玄著 春秋社 新装版第二版 1975年 p.127 自由人・一休宗純
一休が登場した作品
説話
『一休咄』で知られている。
詳細は「一休さん」を参照
代表的な説話
『一休咄』は作者不詳で、世に出たのは一休の遷化から200年余り後の江戸時代前期・元禄年間である。実在の一休が周建を名乗っていた幼少時代に時代が設定される。『一休咄』は民衆の願いを歴史上の人物に仮託した読み物で、一休の事績の他に、一休になぞらえた民間説話や登場人物を他の高僧から一休に置き換えた伝説が数多く挿入されており、史実とは言い難い。
屏風の虎退治
足利義満が一休に出した問題の一つ。
「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。
このはし渡るべからず
桔梗屋が一休に出した問題の一つ。
店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず(『この橋を渡るな』の意)」と書いてある。しかし一休は、「この端(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った。
後日談で、同じ問題に加えて「真ん中も歩いては駄目」と難題を出されたが、「橋に乗らねばよいのだろう」と敷物を敷いてその上を歩いて渡ってきた。
伝記
幼少期は頓知小僧で、青年期に厳しい修行を積んで名僧となったという逸話が多い。子供向けの伝記や民話系の物語では特にこの傾向が強い。また、幼少期の逸話には頓知で和尚や足利義満をやり込める話が添えられることが多い。これは『一休咄』と史実の一休を一つの物語にしており幼少期については史実から遠いと言えるが青年期以降のエピソードのみでは堅い話となるので、親しみを持たせるためにこのようにしたと思われる。なお幼少期の一休の名前や寺の名前、生まれについては明示するものとしないものがある。
テレビアニメ
『一休さん』
『オトナの一休さん』
『R.O.D -READ OR DIE-』
テレビドラマ
『一休さん』(1985年の単発テレビドラマ。富田靖子主演。月曜ドラマランドのうちの一本として放送)
『一休さん』(1986年の単発テレビドラマ。浅香唯主演。月曜ドラマランドのうちの一本として放送)
『一休さん・喝!』(1986年の連続テレビドラマ)
『花の乱』(1994年の大河ドラマ、演:奥田瑛二)
『えなりかずきの一休さん』(2004年の単発テレビドラマ)
『一休さん』(2012年の単発テレビドラマ。翌2013年に続編『一休さん2』が製作された)
漫画
『あっかんべェ一休』(坂口尚)
『一休伝』(原案:水上勉、脚色:佐々木守、作画:小島剛夕)
『探偵ボーズ21休さん』(原作:新徳丸、作画:三浦とりの)
小説
『一休暗夜行』『一休闇物語』『一休虚月行』『一休破軍行』『一休魔仏行』『ぬばたま一休』(朝松健)
『一休さんの門』『一休さんの道』(川口松太郎)(講談社文庫ほか)
バラエティー
『日本史サスペンス劇場』(2008年、一休宗純:加藤茶)[10]
舞台
『TABOO』(野田秀樹・作)
音楽
「一休さん」(作詞:若杉雄三郎、作曲:中山晋平)
「とんちの一休さん」(作詞:市原三郎、作曲:山口保治)
「一休禅師〜いま宿花知徳の道へ〜」(作曲:櫛田胅之扶)
「一休さん」(作詞・作曲:オオルタイチ、歌:水曜日のカンパネラ。2017年発売のアルバム『SUPERMAN』に収録)
玩具
超合金GA-68『名作シリーズ 一休さん』(ポピー)
アニメ版ではなく歴史上の人物で、現在唯一超合金として発売。定価1300円(当時)
【出典:Wikipedia 一休宗純】
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)
(二五)一休宗純
一休宗純初の名は周建、華叟宗曇の法を嗣ぎ、自ら狂雲子或は夢閨、瞎驢、國景、曇華と號した。(紫巖譜略)母は藤原氏、應永元年正月元旦誕生した。後小松天皇の皇胤と傳へてゐる。六歳の時京都安國寺に入りて侍童となり、後應永二十二年近江の堅田に赴き、【華叟に師事す】華叟に師事し、同二十七年五月鳴鴉を聞いて大悟した。爾來京畿の間を轉々していたく禪風の頽敗を歎じ、不覊の狂體に時流を睥睨しつゝ提撕に力めた。其間永享四年冬南江宗玩と携へて堺に來り、同七年亦在留し、既にして應仁、文明の際亂を避けて酬恩庵に入り、文明元年奈良を經て堺に來り、八月住吉の松栖庵に寓した。翌二年一檀越が同地の坂の井に小庵を營み一休を請じた。卽ち諸弟子を率ゐて移り、庵を雲門庵と稱した。同六年二月勅命大德寺住持職たらしめんとせられ、入京して其第四十七世となつた。【牀菜庵々居】既にして同八年住吉小野に庵居し、牀菜庵と稱した。翌九年同庵南畔の竹林中に小亭を構へ多香多福香嚴と稱し、苦熱を避けた。此牀菜庵淹留中に、堺の豪商尾和四郞左衞門宗臨等屢々之を訪ひ、禪要を問答したといはれて居る。十年三月住吉を出でゝ、又薪の酬恩庵に入り、十一年六月新たに法堂を大德寺に營んだ。(一休和尚年譜)應仁兵燹後、【宗臨と一休】尾和宗臨の外護を得、文明年中其佛殿を再興し、(尾和宗臨畫像贊)其他如意庵、大用庵を再建した。眞珠庵は一休の遷化後、宗臨前約を踐んで之を再造した。猶ほ一休牀菜庵在寓時代屢々堺津甲斐町中濱、扇屋甚右衞門を訪ひ、窮乏を憐んで扇の地紙を取寄せ、或は銀臺繪等を描き與ふるや、世人之を賞翫し、買ふ者市をなして、忽ち有福となり、これより聟入一休の俗談を生ずるに至つたと云はれてゐる。(堺鑑中)又其弟子岐翁紹禎と、【集雲庵開基】堺の集雲庵を開基した。(堺鑑中)文明十三年十一月二十一日酬恩庵に於て示寂。世壽八十八歳。作るところの頌偈二卷を狂雲二集と云ひ世に行はれてゐる。( 休和尚年譜)