01-00401 牡丹花

さかいの人物じんぶつ

當津古來名譽めいよ人物じんぶつゑらんでこゝに載す

牡丹花ぽたんくは

扶桒隠逸傳曰具平ぐへい親王しんわう遠孫ゑんそんなり
はやく塵俗じんぞくを出て肖柏せうはくがうし又みづから牡丹花ぼたんくはしやうず 人咸ひとみなこれを
このんしよよみ和歌わかゑいじ兼て連歌れんがよく自然齊じねんさい宗祗そうぎしたが
またつね五岳ごがくあそんでつく
いづる時はかならずうしのりその牛角ごかくぬり金色こんじきとなす
觀者みるものあやしみわらへども自若じじやくたり
おひなん〱としていん攝刕せつしう池田いけだしめ夢菴むあんといふ
長松ちやうしやう花樹くはじゆのきめぐらまた四時しいじはなを以て次第しだいうえたり
これによつて其軒そののきはうじて弄花ろうくはと號しさけこのかうあいはなあはせ三愛さんあいとしてみづからつく
永正七年の秋みかど御夢おんゆめ牡丹花ぼたんくは給ふ
すなはち藤公とうこう実隆さねたかめいじて便殿びんでん召見めしみしたしく唱和しやうわましましみかどはなはだ恱喜えつきし給ふ
また幽栖ゆうせいかへつ野服やふく葛巾かつきん觴咏しやうゑいしてたのしむ
厥后そのゝちせつらんさけきよ泉南せんなんうつ
ついに大永七年四月そつ
がい南宗寺なんしうじかくす とし八十五
春夢艸云
 さいつの頃うちの帝の御ゆめに先皇の御代御連歌有へ幾にて發句は肖柏法師申へきよしありしかは先うち〱に御覧有りたきよし當代の仰事なりしに發句にをきては當座に申へし歌の心に同し風情をおもひめくらし侍るとて
 あし引の山とをき月を空にをきて月かけ髙き末のかけはし
といふ歌を申あけたりと御覧してのち肖柏をめして
 發句 空にをきてみん世やいくよ秋の月  肖柏
 𦚰  庭にくもらぬ玉しきの露      御製
あるが肖柏せうはくかつ牡丹ぼたん妙句めうくあり 故に世人せじん牡丹花ぼたんくはしやう
肖柏せうはくさかいあつとう實隆公さねたかこう唱和しやうわの事は次下つぎした光明院くはうみやうゐん條下でうかに見へたり
 春さかぬ花やこゝろのふかみ草      肖柏
當津に於て連歌れんかの門弟多し
所謂いはゆる河内屋宗訊そうじん其子宗周そうしう一咄齊いつとつさい下田屋しもたや宗柳そうりう葦竹齊いちくさい等惠とうゑ靖齊せいさい
ある時宗ぢんの所にて歌の會ありしに
    瀧邉時雨
  山姫の瀧のしらきぬそれかねてけふはつしくれさそひきぬらん 肖柏
金光寺こんくはうじ覺阿弥かくあみの所にて
    枯野風
  こゑをしる友ならすやは下萩したはぎにならのかれ葉の野への朝風    肖柏

 

今に見る牡丹花

牡丹花


肖柏 肖像画

肖柏(しょうはく、嘉吉3年(1443年) – 大永7年4月4日(1527年5月4日))は、室町時代中期の連歌師、歌人。准大臣中院通淳の子。号は、夢庵・牡丹花(ぼたんげ)・弄花軒(ろうかけん)など。

来歴・人物
宗祇から伝授された「古今和歌集」、「源氏物語」の秘伝を、池田領主池田一門や、晩年移住した堺の人たちに伝え、堺では古今伝授の一流派である堺伝授および奈良伝授の祖となった。早くに出家して正宗龍統に禅を学び、また和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。30歳頃から後土御門天皇の内裏歌合に参加している。

16世紀、永正の初期に摂津国池田を訪れ、大広寺後園の泉福院に来棲し、これを「夢庵」と称し、次の句を詠んでいる。
 
 呉服(くれは)の里に隠れて室を夢庵と号して 笹の葉の音も頼りの霜夜かな
 
「呉服の里」とは、中世の池田地方に呉庭荘という荘園があったことに拠り、現在も町名や呉服神社に名を残している。「夢庵」の肖柏は以後、自らを「弄花」と号し、連歌を詠んだ。同地の国人領主池田充正の次代の正棟が肖柏を庇護し、これを通じて連歌に親しみ、池田一門の連歌流行をもたらしたため、「連歌の達人」と呼ばれた。こうして後世になって大広寺苑内には、肖柏の遺跡が残されることとなった。

その後度々上洛したが、永正15年(1518年)和泉国堺に移り、その地の紅谷庵に住み没した。

「古今和歌集古聞」・「源氏物語聞書」など講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては、宗祇、宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」などが伝わっている。歌集・句集に「春夢草」がある。

孫に江戸時代前期の医師および狂歌師、俳人および歌人の半井卜養がいる。

【出典:Wikipedia 牡丹花

  

堺市立中央図書館/堺市史
堺市史 第七巻
第一編 人物誌
第二章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)

(一五七)牡丹花肖柏
 牡丹花肖柏は村上天皇の皇子、具平親王の遠孫、大納言中院通方の後裔で、(古溪筆夢庵贊、本朝通記後編二一、膾餘雜錄二)嘉吉三年京都に生れた。【機才】幼より連歌を好み、八歳の時机に倚つて手習の際、或人突然に「物をもいはで物習ふ人」と口吟んだ。肖柏直ちに筆を把つて「くちなしの花のいろはやうつすらむ」と、附句を書いて、之に示したと傳へられて居る。肖柏幼年既に世態を厭ひ、風雅の道に入り、肖柏を名とし、自ら牡丹花と號した。漢書を讀み、和歌を學んで當時の、巨匠宗祇に就き、新續古今より、伊勢物語、代々の歌集に至るまで、悉く之を究めて、奧祕に通じ、(本朝通記後編二一)遂に古今集の傳授を受けた。【堺古今箱傳授】肖柏之を堺の門弟に傳へたものを、堺古今箱傳授と稱してゐるのは、晚年居を堺に移したからである。又肖柏後に至り之を奈良の林宗二(宗二は林逸と稱し、法名を桂室宗二居士といふ)に傳へたものを奈良傳授といふ。(禪林文藝史譚)又屢々五山に遊んで、唐宋の詩律を究め、作詩に長じ、兼ねて和文にも妙を得た。(扶桑隱逸傳下、本朝通記後編二一)【堺流の書法】書道に巧みで、飛鳥井流より出でゝ一流をなし、之を堺流といふ。(文藝類纂卷五)又一休宗純に參禪して心要を究めた。肖柏は常に角に金箔を塗つた牛に騎つて外出した。見る人之を怪み、嘲笑したが、自若として少しも意に介せなかつた。老年に及んで攝津の池田に隱栖し、小庵を結んで夢庵と號し、(扶桑隱逸傳下、本朝通記後編二一)庵の四周に松樹及び花木を環らし、又庭に四時の花卉を栽ゑて、(夢庵記、扶桑隱逸傳下、本朝通記後編二一)書齋を弄花軒と名づけ、源氏物語を抄し、之を弄花抄と稱した。【三愛の說】性酒を嗜みて酒壺一個、香を愛して沈香一爐、之に花を併せて三愛となし、建仁寺の常庵に請ふて三愛記を選ばしめ、自らも假名文で記を作つた。(三愛記、類聚名物考卷四十四)又茶事を嗜み、香技を以て交りを志野宗心に結んだ。(茶人系傳全集)
 【新式今按述作】足利幕府の末心敬、宗祇が物故してからは、諸國連歌の會ある每に論爭の絶間なきにより、文龜二年肖柏は後柏原天皇の勅を奉じて、新式今按を述作し、儼然たる法式を定めた。(續俳家奇人談)永正七年八月後柏原天皇御夢に父帝後土御門の連歌會に侍せられ、肖柏に命じて發句を詠ましめたところ、肖柏は「あし曳の山とをき月を空にをきて月影たかき末のかけはし」の一首を奉つて、發句の意は此和歌の心と同一であると奏した。天皇御夢覺めて之を奇とせられ、卽ち三條西實隆をして、肖柏を池田より召さしめ、九月十三夜便殿に於て、親しく連歌會を催され「空にをきて見ん世や幾世秋の月」といふ肖柏の發句に對して、天皇は「庭にくもらぬたましきの露」と、和せられた。相唱和すること百首、天皇叡感の餘、手づから天盃を酌んで賜はり、肖柏は一世の面目を施した。【春夢草】其夜、此ことを思ひつゞけ「およひなきほとは雲井の夢うつゝあやしき身ともおもほゆるかな」と、詠じたが、後に實隆此ことを敍し、其記を春夢草と稱した。(春夢草)禪僧周麟も亦此ことを記述した。(類聚名物考卷四十四)是より先き、肖柏は伊勢物語註を撰んで後土御門天皇に獻じ、六家詠草中から精華を萃めて、後柏原天皇に獻じた。(古溪筆肖柏夢庵贊)又九代集中から二千餘首を撰んで、初學の捷徑に便した。(古溪筆肖柏夢庵贊)曾て牡丹花の詠に「春咲かぬ花や心の深見草」の句がある。【牡丹花の稱】牡丹花の稱是より起こると。(鹽尻卷之九十三、泉州志卷之一)連俳家が牡丹を以て初夏の部に出すやうになつたのは、此句に基づくものといはれて居る。(續俳家奇人談)
 【堺に隱栖す】肖柏野服葛巾、觴詠を樂しんだが、晚年亦攝津の兵亂を避けて堺に來り、豪商紅粉屋喜平の請により老を此處に養ふた。(紅谷庵緣起)現三國ヶ丘町の紅谷庵は其遺址である。【三條西實隆等との應酬】某年四月三條西實隆が、高野參詣の途、堺南庄光明院に止宿の際、彼此相訪問し、五月朔日同院に於て、連歌會を催し、相唱和した。「濱松の名にやこたへしほとゝきす」牡丹花「みしか夜惜きうら波のこゑ」實隆「すゝしきを光に月は秋立ちて」宗磧、などが名句として傳はつてゐる。參詣日記に「夢庵におとづれしかば、頓て尋ね來り、夕つけて又かの寄宿の寺へも罷り侍り。」と見えてゐる。(逍遙院内府實隆公高野參詣日記)寄宿の寺とは、彼の紅谷庵であらう。又或時、堺河内屋宗訊の邸で、歌會があつたとき、瀧邊時雨と云ふ題にて「山姫の瀧のしらきぬ染かねてけふ初時雨さそひ來ぬらし」金光寺覺阿彌の所で、枯野風と云ふ題にて「音をしる友ならすやは下萩にならの枯葉の野邊の朝風」の所詠がある。(堺鑑下)大永七年四月四日享年八十五歳を以て逝去した。(古溪筆肖柏夢庵贊)塔は南宗寺にあるが、恐らく、埋骨の地ではあるまい。大安寺の境域には、古くから其兆域があつて、墳上に墓石が建てられ、由來を鐫刻してある。【堺の門下】堺の門人の主なるものには、宗珀(伊豫)、等惠(靖齋)、下田屋宗柳(葦竹齋)、空盛(常樂寺天神の社僧、吉祥院の中興、權大僧都法印)、盛譽(同松南院の三世、權律師法印)があり、(神國和歌正流血之卷)其他河内屋宗訊、其子宗周(一咄齋)、宗椿等がある。(堺鑑下)【著書】述作の主なるものには、伊勢物語註、新式今按、三愛記、弄花抄、一葉抄等がある。(日本文學者年表續編)

【出典:ADEAC(アデアック)ディジタルアーカイブ/堺市立中央図書館/堺市史

 

牡丹花ゆかりの地

 

 

 

 

曹洞宗
天王山 紅谷禪庵(通称べにやあん)
堺市堺区中三国ヶ丘町2丁1−37
 

南宗寺に祀られる牡丹花肖柏の墓碑
臨済宗大徳寺派
龍興山 南宗寺
堺市堺区南旅篭町東3-1-2
 

紅谷庵

 天王山てんのうざん紅谷庵こうこくあん(通称べにやあん)は、大永だいえい年間(1521~1527)堺大小路在住の豪商紅屋喜平べにやきへいが、この地に草庵を建てたのが始まりです。池田から乱を避けて堺に来た連歌師れんかし牡丹花ぼたんか肖柏しょうはくをこの草庵に住まわせました。
 その後荒廃しましたが浄土僧是得これとくが居住、諸宗の徒も来住。元和げんな(1615~1623)以後は堺の金屋伊右衛門の所有となり堂宇どううも朽ち荒れていましたのを、安政元年(1854)泉北郡信太村しのだむら蔭涼寺いんりょうじの住職環渓かんけい密雲みつうんが日々多数の僧を連れ、堺付近を托鉢たくはつの際、当庵の荒廃を見てこれを惜しみ、自ら譲受け大修理をし、僧侶養成の法を講じて遂に五十余員の僧侶を安住させました。
 しかし、環渓が武蔵世田ケ谷豪徳寺ごうとくじに転住後、遺風を継ぐ者がなく、再び廃庵となるところ、これを知った環渓が山城宇治の興聖寺こうしょうじに昇住する時、櫛屋町の土川茂平らに援助を乞い大修理を行い、明治元年(1868)本堂・庫裏くりを建て曹洞宗の寺としました。

堺市
 
【出典:堺市設置案内板】

 

紅谷庵

紅谷庵(こうこくあん)とは、大阪府堺市にある曹洞宗の寺院。
歴史
紅谷庵は曹洞宗に属する寺院で、山号は天王山といい、本尊は十一面観世音菩薩である。大永年間(1521~1527年)に堺大小路在住の豪商紅屋喜平がこの地に草庵を建てたのが始まりとされている。1518年(永正15年)に牡丹花肖柏が北摂の池田から、戦乱を逃れて堺に移って紅屋の世話になり、ここに隠棲し、以来、紅屋の庵、紅庵(べにあん)又は紅谷庵と呼ばれるようになった。

肖柏は、当時の裕福で経済力のあった堺の商人たちから、文芸活動や生活を支えられ、彼らに和歌や連歌の指導を始めた。また宗祇から始まる古今伝授を受け継ぎ、「堺伝授」と呼ばれる系譜を作った。

しかし、その後、浄土僧是得が居住、諸宗の徒も来往したが、元和以後、寺地も金屋伊右衞門の私有に帰し、荒廃した。1854年(安政元年)泉郡信太村(現在の和泉市)蔭涼寺の住職、環溪密雲が堺附近に托鉢の際、当庵の荒廃を見てこれを惜み、一貫五百匁を出金して当庵を譲り受け、自ら来住して大修繕を加えて、僧侶養成の法を講じ、五十余員の僧侶を安住させた。

堺の櫛屋町にすむ土川茂平が、深く環溪の高風を欣慕し、これを支援したが、環溪が武蔵の世田谷の豪德寺に転住し、後を継ぐものなく、再び廃庵に帰せんとした。1868年(明治元年)、環溪 が山城宇治の興聖寺に昇住するに及び、土川と再興を企て、本堂及び庫裏等を建立し、興聖寺末として高弟の眉柏祖禅を住職たらしめ、維持の法を定めて1870年(明治3年)天王山紅谷庵と公称した。1872年(明治5年)11月寺格を昇し、曹洞宗最高の格位である常恒会地となった。

【出典:Wikipedia 紅谷庵

 

天皇山紅谷庵

天皇山紅谷庵(通称べにやあん)は、大永年間(1521?1527)堺大小路在住の豪商紅屋喜平が、この地に草庵を建てたのが始りです。

池田から乱を避けて堺に来た連歌師「牡丹花肖柏」をこの草庵に住まわせました。

その後荒廃しましたが浄土僧是得が居住、諸宗の徒も来往。

安政元年(1854)勅特賜絶学天真禅師、環渓密雲禅師が日々多数の僧を連れ、堺付近を托鉢の際、当庵の荒廃を見てこれを惜しみ、自ら譲受け大修理をし、僧侶養成の法を講じて遂に五十余員の僧侶を安住させ、櫛屋町の土川茂平らに援助を乞い大修理を行い、明治元年(1868)本堂・庫裏を建て曹洞宗の寺としました。

【出典:天皇山紅谷庵リーフレット】

 

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