金光寺
金光寺藤
藤の花これまてあらはれいて蛸也 其角
同所にあり
時宗
本尊藥師佛
仁明帝承和元年の珍怒海に夜々光明あり
此由を奏して海底に網を布ければ此尊像を得たり
故に網道塲と号し又金光寺と勅号あり
開基眞澄上人
稲荷大明神の告によつて阿弥陀佛三尊を感得しこゝに安置し念佛道塲とし給ふ
紫藤
寺前にあり
麗花たるによつて後小松院勅して禁庭へうつし植させ給ふに不日にして枯にき
帝夢の中に和哥一首を得給ふ
おもひきや堺のうらの藤浪の都の松にかゝるへしとは
御夢寤ての後藤の精霊玉體に奏しけるよと御感あつて御宸筆に此哥を遊され御製を添られ紫藤を當寺に胎返されたまふ
旧趾に植るに忽栄て枝葉繁茂して元トの如し
人咸これを竒也とす
金光寺の藤の花見て
藤浪や上は夕波下は人 季 吟
今に見る金光寺
妙国寺山門の手前に建つ道標。
「右 名所金光寺藤の明神」と記されています。
金光寺は明治35年(1902)宝珠院に合併され、現存しません。
反対の面には「左 とさのをさむらいはらきりのはか」、「是より東へ半丁 明治戊辰殉難 土佐藩士墓所」と記されています。
土佐十一烈士墓は慶応4年(1868年)に起った堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓で、宝珠院(ほうじゅいん)境内にあります。
金光寺は明治35年(1902)宝珠院に合併され、現存しません。
反対の面には「左 とさのをさむらいはらきりのはか」、「是より東へ半丁 明治戊辰殉難 土佐藩士墓所」と記されています。
土佐十一烈士墓は慶応4年(1868年)に起った堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓で、宝珠院(ほうじゅいん)境内にあります。
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