02-01400 七堂濱

七堂濱しちだうがはま

北莊の西濵をいふ相傳ふいにしへは髙須寺たかすでらの七堂伽藍がらんありし旧蹟きうせきといふ
續日本紀曰
光仁帝くはうにんてい寳亀ほうき四年十一月みことのりして曰大僧正行基ぎやうぎ智德ちとく兼備けんびにして先代せんだいより推仰すいかうするところ
後世こうせい耳目じもくきうするところその修行しゆぎやう院々ゐん〱すべて四十餘宇よう或は先朝せんてう施入せにうでんあり或は本來もとより田園でんゑんあつて供養くやうさいたるもありたゞし此六院はいまだ施例せれいあづから因茲こゝによつて法藏ほうざう湮廢いんはいしてまた住持じうぢするなし精舎しやうしや荒涼くはうりやうしてむなしく㘴禅ざぜんあとあまん
みちひろむる人によつてじつ弉厲しやうれいあはせよろしく大和國やまとのくに菩提ぼだい 登美とみ 生駒いこま 河内國かわちのくに石凝いしこり 和泉國いづみのくに髙須たかすこの五院ごゐんをの〱當郡たうぐんでんちやうしや

今に見る七堂濱


千日井がある付近の全景

高渚寺の井戸と言われている千日井

千日井

此の井は行基菩薩七堂構榮の地に鑿掘したるところと傳ふ
今や蒲生氏及びその一族の特志により修理の巧を竣へ清泉滾々として盡きす
汲む人其遺澤を憶へ
四天王寺現董
大僧正 大應 撰書


千日井案内板
大阪府堺市堺区七道西町

 千日井は、奈良時代の高僧行基(668-749)が開いたとされる、高渚寺の井戸といわれています。堺に上水道が整備されるまでは、付近の人々の飲料水源となっていました。
 井戸の横にある縦長の石碑は、かつて土居川に架けられていた「千日橋」のたもとにあったもので、千日橋の建立にかかわった「岩ノ喜兵衛」や水難によって亡くなった人々の供養た文政9年(1826)に神南辺隆光(道心)が発起し、宗見寺の真誉上人が導師、付近の農民たちが世話人となって建立されたものです。

堺市教育委員会