02-02200 向井

むか

向泉寺かうせんじの旧地方違かたたがひ社のほとりにあり
僧正行基此水を閼伽あかとしてつねに佛に供ず
相傳ふ衆病しゆびやうのぞ眼目がんもくあらへばあきらか也といふ
其外超善寺てうせんじ井 常照寺じやうせうじ井あり何れも市中しちうよりんてになひはこびてはんかしき茶をにるに用ゆ

 

今に見る向井

 創建当時、寺のあった場所は、向泉寺閼伽井(堺市堺区榎元町5丁)を中心とする区域で、「堺市史」には、旧中筋村大字向井の方違神社付近と記されています。
 「向泉寺縁起」によりますと、創建の時期は、天平十五年(743)で約千二百五十年前であり、名僧行基が聖武天皇の命を受けて開創した勅願所と伝えられています。
 寺は、境内八町四方、南は大仙陵につづき、北は朴津郷(榎津郷とも書く、浅香山から西方海岸に至る地域をさす)に連なっていた。行基は、金堂、講堂、鐘樓、回廊、門などを構営し、金堂には自ら刻んだ千手千眼観世音菩薩(高さ五尺三寸の立像)を、講堂には聖徳太子作橘諸兄の尊信仏薬師如来(高さ三尺の立像)を安置し、修行の学僧が坊を構えてここに住み、その数は数十棟に達する壮観なものでした。
 寺の境域が摂津、河内、和泉の三カ国に接するので、山号を「三国山」と称した。堂宇創建の前、行基はまず閼伽井(仏に供える水)を得んとして、一つの井戸を掘り、堂宇がこの泉に向うので「向泉寺」と号し、また「向井寺」とも呼ばれたという。
 また、聖武天皇は土師下条の一村を向泉寺の寺領に当てられたと称し、建武元年(1334)永福門院(伏見天皇の中宮)の令旨に、遍照光院(向泉寺)に和泉国土師下条向井村を知行すべきことを記しているので、向井村の区域は早くから向泉寺の領域であった。なお、寺のあったところは、摂河泉三カ国の街路に当るので、行基は伏屋(布施屋)を建てて庶民の休泊に利用させたと伝えられています。後世、和泉名所の一つになった「三国の茶屋」はすなわちその旧跡といわれています。当時は、特定階級の人は別として、庶民は通行の途中、宿泊するところが容易に得られなかった。この伏屋には、今日の旅館などとは違った社会事業施設的な意味があった。
(ただ、「行基年譜」には向泉寺があったとされる地域には、布施屋の存在は記されていません。)


史蹟 三國山遍照光院 向泉寺 閼伽井[全景]
所在地: 大阪府堺市堺区榎元町5丁3


向泉寺 閼伽井


旧向泉寺閼伽井碑

旧向泉寺閼伽井碑文

 第四十五代聖武天皇は深く佛教に帰依せられ、高僧行基に命じて天平年中にこの地に勅願寺院を建立された。行基はまず閼伽井を得んとして一泉を掘りこれに向って金堂その他諸堂宇を建て多くの学僧を擁した大寺院であった。
 この地は攝津、河内、和泉、三ケ國の界に位置していたので三國山遍照光院と号し、堂宇が泉に向っているところから向泉寺と名づけ、またこの寺が和泉の國に向っていたので、向泉寺と称したともいわれる。
 この水は閼伽井の他王子、方違、東原天王の三社の祭祀用水に用い、また諸病に霊験あり、用うればたちまち平癒いわれたが永正年中に寺は兵火にあい市中に移って後は用いる人も次第に少なくなり遂に享保年間に廃寺となった。
 寺名の由来ともなったこの井戸は堺市にとって歴史上意義深い史跡である。
 昭和四十二年六月十七日

堺市教育委員会
榎土地区画整理組合

 

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