03-00800 國府清水

國府こふの清水しみづ


國府こふの清水しみづ
神㓛皇后じんぐうくはうごう三韓さんかん退治たいぢの後武庫むこよりこゝに至り此霊泉れいせんしやうじ給ふより和泉いづみの名はじまる
むかし黄帝くはうていの時あるひぎようの代夏后かこうの節霊泉れいせん出る
こゝも比ためしによるならんか

府中ふちう村西の入口にあり和泉國としふは此清水よりおこる一名和泉いづみの井ともいふ
神㓛皇后じんぐうくはうごう新羅<しらぎ/rt>せいし給ふとし清泉せいせん湧出わきいづる故に和泉郡いづみのこほりがうす
此時いまた河内國也元正帝げんしやうてい霊亀れいき二年四月河内國大鳥おほとり和泉いづみ日根ひねぐんさきて和泉國とす前巻に見へたり
いにしへは清水しみづうへ八幡社はちまんのやしろありあるひ水内みづのうちの社ともいふ
延喜式ゑんぎしき神名帳には泉井上いづみいのうへの神社とあり此井まれなる霊泉れいせんにてつねに清らかにすみわたり味甘あぢはひあまちやもちさけかもするになり
天正年中秀吉公ひでよしこうめいとしてこれをくんで大坂の城内にはこばしめ給ふ
そも〱皇后くはうぐう三韓さんかん凱旋がいせん御時おんとき小竹宮しぬのみやきよし給ふこれを舊府きうふといふ
元正げんしやう聖武しやうむの二ていもこゝに行宮あんきうたてさせ給ふこれを珍努離宮ちぬのりきうとも和泉宮いづみのみやとも穪ず
古代こだい國司こくしやかたにして國府こふといひ又府中ふちうともいふ
和泉式部いづみしきぶおふと橘道貞たちばなのみちさだ 源順みなもとのしたがふ 紀貫之きのつらゆき 菅原定義すがはらのさだよしとう和泉守いづみのかみに任ぜられてみな此府中ふちうきよ
後鳥羽院ごとばのゐん熊野くまの御幸ごかうの御時建仁けんにん元年十月六日平松王子ひらまつのわうじより御馬おんむまとゞかちより國府こふ新造しんざう御所ごしよ入御じゆぎよし給ふ事かの御幸記ごかうのきに見へたり
源順みなもとのしたがふ和泉守いづみのかみにてこゝに居し伊賀伊勢守に任國にんこくなき事を愁て
家集
 ほともなきいつみはかりにしつむ身はいかなるつみのふかきなるらん 源順
今昔こんじやく物語には大江與周たかちか大江匡衡の子母は赤染衛門くはんのぞみける時に母赤染あかそめ鷹司殿たかつかさとのにかくなんよみて奉りける
 おもへ君かしらの雪をうちはらひきえぬさきにといそく心を     赤染衛門
御堂みだうの殿下でんか関白くはんぱく道長みちなが此哥を御覧してきはめてあはれませ給ひて此和泉守にはなさせ給へる也
年所ねんしよ古きあとなれば代々の天子もこゝに離宮りきういとなませ給ひ公卿もこゝに居し給ふ所にして當國㝡一さいいつの舊蹟なるべし

今に見る和泉清水


「和泉清水」の碑

「和泉清水」の碑は、泉井上神社社殿を囲う瑞垣の中にあります。瑞垣の格子の間から写しました。
しかし、雑草に覆われているため詳細は不明です。

  

泉井上神社拝殿前案内板

今に見る和泉国府


和泉国府廰趾碑
 

和泉国由来 御館山国府庁跡碑

和泉国由来 御館山国府庁跡
1、和泉地名の由来
 仲哀天皇九年神功皇后が行啓なされた時、今の和泉国のある地中(現泉井上神社境内)突然清水が湧きだし流れて河川となった。
 汲んで味わうと甘露のごとく人々は皆驚きこの霊泉湧出の地を泉郡と名付けた伝承されている。
1、和泉国の創設
 続日本紀に元正天皇霊亀二年(716年)「三月癸卯割河内国和泉日根両郡令供珍努宮」又「夏四月甲子割大鳥和泉日根三郡始置和泉監」とあり河内国より三郡(大鳥・和泉・日根)を割つて始めて和泉監と言う行政府を現在の和泉府中の地に置いた。
 その後、孝謙天皇の天平宝字元年五月(757年)には正式に国司をおいて国号を和泉国として後世に及んだ。
 又、国司として紀貫之、凡河内躬恒、源順など著名な歌人が多く赴任してきた。
 赤染衛門
  人よりもわきて嬉しきいづみかな. 雪げの水のまさるなるべし
 昭和62年11月   和泉南ロータリークラブ

泉井上神社は、巻3-00900 総社で紹介しています。