03-00900 総社

総社そうしや

[総社挿絵 全景]

[総社挿絵 鳥居]

府中社ふちうのやしろ
鳥居前とりゐまへ
[総社挿絵 本社・清水]


府中㹅社ふちうのそうしや
府中清水ふちうのしみづ

府中村にあり和泉國五社 大鳥 穴師あなし 信太しのだ 積川つかは おほせきを併せ祭る
例祭八月十五日には五社の神輿こゝにみゆきありて清水しみづのぞんで禊事けいじしゆ

祭神

中央 天照太神 左 天忍穗耳尊あまのをしほのみこと 鸕草葺不合尊うかやふきあはせずのみこと 右 瓊々杵尊にゝきのこみと 彦炎出見尊ひこほゝでみのみことの五を祭る
又鳥井の内にかめ石あり

八幡宮

本社の東にありむかしは清水の上にあり
元正帝 養老四年より放生會はじまり當社に於ても毎歳八月十五日五社の神輿をこゝに神幸し放生會 を修す
又聖武帝天平十四年夏大旱おほひでりなれば官幣くはんへいを五社及ひ井上八幡宮に奉て雨をいのる忽大雨たいうふりて國中大平をうた

末社

大己貴おほあなむち社 事代主ことしろぬし
弁天社は池中にあり

神宮寺じんぐうじ

㹅社 の南壱町斗にあり本堂には藥師佛 太子堂には聖德王を安す

今に見る五社総社

泉井上神社

泉井上神社 鳥居
 

拝殿
 

五社総社 拝殿
 

五社総社 本殿
 

熊野街道に面した鳥居
 

泉井上神社ご由緒

 
【延喜式神名帳】泉井上神社 和泉国 和泉郡鎮座
(摂社)和泉神社
【現社名】泉井上神社
【住所】大阪府和泉市府中町6-2-38
【祭神】神功皇后 仲哀天皇 応神天皇 (配祀)応神天皇従者四十八柱
(合祀)菅原道真 素盞嗚尊
【例祭】 10月10日 例大祭
【社格】旧府社
【由緒】
神功皇后が半島より帰還した際に霊泉湧出
天平宝字元年(757)河内国から和泉国分離
養老4年(720)隼人の乱で奉幣
天平4年(732)大旱で奉幣祈雨
正平、明徳、天正の時代には一万石の社領
織田信長は当社の所領を1200石とする
天正13年豊臣秀吉によつて所領全部を没収
慶長10年(1605)豊臣秀頼によつて当社・五社総社再建
明治3年8月天災のため社殿大破
五社総社の神殿を取毀し、祭神を当社に移して、「泉井上総社」と称した
明治五年(1872)村社
同28年5月31日また分れて両社併立
同40年1月神饌幣帛料供進社に指定
明治41年10月26日再度五社総社を併せ、境内社として現在に至る
同12月8日字御館の村社「和泉神社」を合祀
大正7年5月20日郷社
昭和8年9月6日、府社
【祭祀対象】泉
【祭祀】江戸時代は「四十八神宮」「井ノ八幡」「井戸ノ森八幡宮」と称していた
【社殿】泉井上神社の本殿は和泉大社造 和泉五社総社の本殿は三間社流造茅葺
幣殿・拝殿・神饌所・手水舎・神門・社務所・神輿庫
泉井上神社
当神社は井八幡社・井戸ノ森八幡宮と称されることもあり、国土守護神又殖産興業の神として御神徳を示す。
神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后にしたかって朝鮮にわたった神々四十五座を加えた計四十八座を祭神とし、その神像四十八躯を蔵す。
境内の清水は神功皇后渡韓の途次一夜にして湧出したので霊泉と名づけられ、国名の源となる。
のち王子神社・八幡神社・菅原神社・式内社和泉神社が合祀されて今にいたっているが、特に和泉国衛内の神社であるところから和泉の総社、(大鳥・穴師・聖・積川・日根の五社合祀)が勧請されて国司以下官人の崇敬をあつめていた。
総社本殿は慶長十年(1605)豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されている。

【出典:境内案内板】

 

国指定重要文化財

 
泉井上神社境内社和泉五社総社本殿
 泉井上神社は、「和泉」の地名の発祥となったと伝えられる、「和泉清水」を祭つている神社である。
 五社総社は,奈良時代に河内国から分離し、和泉国が設置された際国府の所在地府中に、国内の五大社である大鳥、穴師、聖、積川、日根を総合して勧請し、参拝の便を計つたといわれている。
 現在の本殿は、慶長十年(1605)に、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので、国の重要文化財に指定されている。
 正面桁行三間、身舎側面二間、屋根が一間分前へ延びて庇をなす。「三間社流造」と呼ばれる形式で、桧皮葺としている。正面と両側面には縁を廻して組高欄を設ける。向拝位置は浜床を張つて半高欄を置き、五級の階段にも宝珠柱の立つ登高欄を設けている。また、内部は内外障境を三枚の両開き板戸で分かつ。
 主要部分は丹塗りで極彩色を施し、よく当時の様式を残しており、造営年期が明確な社殿として貴重である。

平成3年3月30日
和泉市教育委員会
【出典:境内案内板】