03-01200 平松王子

平松王子ひらまつのほうし

同村にあり御幸記曰建仁元年十月六日於平松王子乱舞沙汰
正治百首
平松はまた雲ふかく立にける明行鐘はなにはわたりか 後鳥羽院

今に見る平松王子


平松王子跡案内碑

和泉市幸町の放光池第一公園道路向いに立てられ、「是より北北西七十米」と刻まれています

 

平松王子跡に建立された後鳥羽院歌碑

「平松はまた 雲ふかく立にけり あけ行く鐘はなにはわたりか」

 

歌碑の裏 歌碑建立の「註」書き

 
 御幸記に「建仁元年十月六日平松王子に於て」と記されている
 熊野詣での途次平松王子で御宿泊詠み給へる和歌である

正治百首所載

  昭和六十年十二月吉日  和泉ロータリークラブ
  創立二十五周年記念建碑

 

平松王子案内板

平松王子

 平安時代以後、熊野こそ現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」が流行し、一切の罪業消滅を願う皇族や貴族達がこぞって熊野の地を目指すようになりました。この熊野への参詣の道が熊野街道です。
 この熊野街道筋の要所要所に、熊野権現の末社として設けられたのが、熊野九十九王子社であり、遙拝所、休憩所として利用され、その地名を冠して「何々王子」と呼ばれています。
 和泉市内では篠田(信太)王子、井口(茶井)王子、そして平松王子がありました。この平松王子は藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」によると、建仁元年(1201)十月の後鳥羽上皇の熊野御幸の折り、この王子近くに設けられた行宮(平松御所)で上皇一行が宿泊されており、上皇は「平松はまた雲深くたちにけり、あけ行く鐘はなにはわたりか」の一首を残しています。
 和泉市周辺では説経節で名高い「小栗判官」で、熊野参詣のため車に乗った小栗判官が照手姫に手を引かれて通ったことにちなんで「小栗街道」とも呼ばれています。

 

平松王子跡の近くにこんなものが在りました


幸町地車庫
歌碑が立てられている公園の一角に「幸」の紋が描かれて建てられていました