阿弥陀山松尾寺
松尾寺
松尾山にあり山中の林木葱萃たり
天台宗
本尊如意輪観世音
役行者の作長弐尺許
開基役優婆塞
本願は用明天皇
中興は越泰澄
累世の天子綸旨を賜ふて勅願寺とし数代の將軍命令を賜て祈願所となし官税免除あるなり
いにしへは堂塔伽藍巍々として厳重たり
後世根耒の一乱に佛閣坊舎囬禄の災に逮ぶ
慶長七年豊臣秀頼公再興あるといへども往古の礎石より見れば十が一也
精きは佛國寺の長老百拙和尚の撰書ある松尾寺の記に見へたり左に記す
三所権現社
本堂の上壇にあり祭神熊野 白山 𠮷野藏王権現也
勅願正一位三所権現越の泰澄勧請す
春日四所明神社
三所社の側にあり
神護景雲二年常陸國より大和の三笠山に遷座の時暫くこゝに息給ふ地也
出合衢といふ
山王社
本堂の左にあり
不動堂
本堂の右にあり
善女龍王社
本堂の北にあり
經堂
本堂の南にあり
首堂
樓門の側にあり
相傳源平戰死の時髑髏を當寺に納む
白骨累々として今尚存せり
樓門
石壇の上にあり
西向
泉州松尾寺記
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泉之松尾教寺号山曰弥陀層鸞沓嶂彷彿乎外郭中
岳蜿々其㔟若老龍之偃松尾之穪盖頼之耳曩者簡
在 用明之帝心権輿於役小角中興越泰澄世唱台
衡路隷于北嶺北嶺先德多辨道於此蓋自尊意始意
者圓珍之髙弟道譽氷青所謂役君澄公咸善彗寳誌
之流亜神異難側原夫 天武帝白鳳元年小角躡屐
而始至精修三天合行法至第三夜感得三天降檀星
斗焜熠林巒乃舉(莫の下に手)天像以穪穀聚三天自謂吾於過去
嘗瘞五穀於此崗故今因縁契遇也至第七日墜石自
空而爛角探光果獲霊材遂刻如意輪像至今安本殿
尋而澄公戻止棲影寳構鼎立且建護法祠褒崇曰三
所権現而後鎭四所山王水旱疵癘禱禳嚮應坊舎次
茅皆輪奐忝奉 聖勅厳設两季梵筵五日三十座論
鼕々林嶽壮規宏模洛陽以南鮮儷元暦初平氏族據
攝之一谷源頼朝使弟範頼義經掎角以攻城經有信
艾之智車旗皷渉嶮阻肉薄撃其不備城陥死者如乱
麻之載首級三大艦送葬宇其上嘻噫二將亦知周澤
所以及朽骨邪俗曰首堂 後醍醐帝爲平髙時所襲
狩隠岐島事平 帝重祚特勅禱大寳埀美賜額於四
所祠自爾南朝頒綸綍寄負郭不啻 南延而自尊氏
至義持世降帖而不絶天正中平信長盟主群雄三年
帖又效足利氏五年立牓以禁愚民入寺芻牧及兵卒
暴掠其崇敬差倍蓰於舊九年三月遽命寺田松浦两
將縦兵遂僧放火佛閣亡有孑遺准其首堂者巍乎兵
燹中耳時有日輪院長揄也者爲衆領袖携一㵕匣突
然冒矢石遯去若宗祖法噐歴麻宸翰等尚存者盖瑜
之㓛也微瑜玉石倶焚瑜時八十一又略紀其始末嘆
遇劫濁其慷慨志氣令人想象以寒摽嗟乎瑜實疾風
之勁草與如信長先敬之深而毀之何劇也長鏖淺井
氏後侵略延暦寺焚蕩殆盡寺隷于延暦抑殃及池魚
也與無何長見弑豊臣秀吉立文禄中令免租税慶長
七年秀頼再造瓦礫發光粗復舊観而較之往昔之地
圖千礎萬楹猶如文軒與敝輿也逮乎
東照神君綏撫海内准文禄而後 逓代恩令縄々畵
一不亦韙哉是茲闔山衆商議使紹介賚瑜之漆噐抵
洛訪藤㤗通曰吾寺阨於天正之擾舊誌散佚唯此青
氊閲人如傳舎是眞乎如下璧之混石是贋乎似周朴
之於璞伏𣴎 陽明准后殿下閎覧見㣲而分清濁洵
當代龍門也冀君爲之地倘使 殿下謬埀懿鑑是天
所以幸於吾門矣通因稟 殿下曰於穆 南帝之制
茂哉足利之令敬之哉其佗質夫識之者也門衆皆稽
首又謂通曰今日之遇百代之一時也今復不紀他日
漠然將甚於今日爾爲之何如通謀之余余日吁興之
與廢數焉耳堂々祇洹由鼠啣炷七層都盡唯於大圓
覺爲伽藍刧火不能燒毘嵐不能撓何區々文字之有
而認筌得魚假筏到岸則文亦何廢嘗聞千羊之皮不
如一狐腋百斤之氎不如一金眞苟教荒唐詐譎之説
而眩俗眼夸里閇君子乃不取或雖蠧簡断墨乃芻蕘
之言摘其可釆擢其可舉庻幾乎足傳於後文之不燁
余何媿焉通曰可闔衆亦同力請焉通者 陽明家舊
臣老於洛之柳巷穪夕翁與余契於方外久矣於是直
筆爲記
拾遺
一 三所権現 熊野白山金剛藏王乃泰澄大師勧請
一 四所明神 神護慶雲二年丁未鹿島明神自常陸
州遷于之和三笠山蹔息於此奉迎献雜掌并供蘋
繁清泚遺儼爾俗穪其地曰出合衢曰膳部尾
一 地主两大明神 同時出現
一 山王権現 白河院承保三年春有瑞請神建廟盖
以圓宗鎭護也
一 往生峰 泰澄師造営寺宇奉請神霊畢告衆曰吾
㓛竣矣今當生宇淨國輙自松樹上飛往西方矣古
松見在峰之與松皆以往生呼焉
一 如養勝仙住蘿洞誦法華行基菩薩自穿青巌出阿
伽水及頼朝源公藏經王於山中等共載宇舊記霊
蹟亦存而事渉繁蕪故略述其要係之記尾以備後
之考覧云
時
享保十六年龍集辛亥小春
前佛國沙門百拙元養撰并書