和泉式部旧蹟
上松村にあり俗式部塚といふ當國の内和泉式部の旧跡といふもの凢て三十餘所あり
日根郡谷川小嶋の邊に至りては式部楊枝の清水 鏡石 漿水壺とてさま〲の名あり
式部は上東門院の侍女和泉守道貞の妻也故に和泉式部といふ
其後道貞に捨てられて藤原保昌に嫁す
貴布袮の社にて蛍の和哥御堂関白通り給ふ時の哥代々勅撰に多し
然れども和泉國に赴きし躰曽て見へず後人和泉の名によりて作るものか甚だ不審し
式部は老後誠心寺に籠りて尼となり終を遂らる
命終の地は京師上京小川なり今京極寺町に和泉式部の墳
軒端梅は秀吉公の命により上京より今の地へ遷す所也
當國の和泉式部の名跡といふもの一として眞なるは見へず
日根郡谷川小嶋の邊に至りては式部楊枝の清水 鏡石 漿水壺とてさま〲の名あり
式部は上東門院の侍女和泉守道貞の妻也故に和泉式部といふ
其後道貞に捨てられて藤原保昌に嫁す
貴布袮の社にて蛍の和哥御堂関白通り給ふ時の哥代々勅撰に多し
然れども和泉國に赴きし躰曽て見へず後人和泉の名によりて作るものか甚だ不審し
式部は老後誠心寺に籠りて尼となり終を遂らる
命終の地は京師上京小川なり今京極寺町に和泉式部の墳
軒端梅は秀吉公の命により上京より今の地へ遷す所也
當國の和泉式部の名跡といふもの一として眞なるは見へず